「カマナカジョウ(屋号)の子が殺されている」。沖縄本島中部西海岸から米軍が上陸した1945年4月1日。当時11歳だった読谷村楚辺の山内盛光さん(87)は、村内の洞穴「楚辺クラガー」の中に響いた叫び声が忘れられない。まだ赤ん坊だった山内さんの弟を、侵入してきた米兵が抱き上げた姿を見た人の声を引き金に、壕内は大混乱となった。その後、住民8人が「入水自決」を図ったクラガーの証言は村史にも少ない。「こんな話、できることならしたくないよ」。山内さんは重い口を開き、振り返った。(中部報道部・大城志織)

楚辺クラガー(2018年撮影、読谷村提供)

楚辺クラガーでの体験を振り返り「いつ死んでもおかしくなかった」と語る山内盛光さん=3月29日、読谷村楚辺の自宅

楚辺クラガー(2018年撮影、読谷村提供) 楚辺クラガーでの体験を振り返り「いつ死んでもおかしくなかった」と語る山内盛光さん=3月29日、読谷村楚辺の自宅

 当時、海岸の岩場の壕に母や祖母、幼いきょうだい4人と避難していた。3月31日に壕の横に砲弾が落ち、楚辺クラガーへ身を隠した。4月1日昼ごろ、米兵がクラガーの周囲を取り囲んだ。一人が母の腕から末弟を取って抱き上げると弟は大声で泣き出した。

 赤ん坊が殺されている、の叫び声で、人々でごった返す壕内は混乱状態に陥った。山内さんも恐怖の中、奥に逃げ込み湧水にたどり着いた。真っ暗な中、人々が泣きわめく声だけが響いていた。水に漬かり、寒さに震えながら「遠くに、遠くに」逃げたつもりだったが「今思えば、池の中をぐるぐると何時間も歩き回っていた」と山内さん。

 翌日、投降を呼び掛ける声が聞こえた。「行けば殺される」と言われたが壕の外に出た。先に捕虜となり、わが子を助けに戻る途中の母と再会。「生きていた…」と涙で喜び合った。

 石川の収容所に行く前、楚辺の屋敷でしばらく過ごした。大人たちが穴を掘り「水の中からすくってきた」と遺骨を埋めており、クラガーにいた人の一部が「入水自決」したと知った。山内さんは「多分、米兵は赤ん坊がかわいくて抱き上げたのだと思う。だが米兵に捕まったら皆殺しにされるとしか聞いていなかった。よう生き残ったな、としか思わない」。幸い、一緒に避難した家族は全員無事だった。

 米軍上陸後、チビチリガマやクーニー山壕などでは追い詰められた住民による「集団自決(強制集団死)」が起きた。村史によると、1日から6日までに村戦没者名簿に「自決」と記された数は116人に上る。悲惨さ故に、今も口を閉ざす人は多いが「話したくない人はいっぱいいる。でも、もう二度と起きてはいけない」と山内さん。記憶を次世代に語ることで平和が続くことを願う。

[ことば]楚辺クラガー 読谷村の米陸軍トリイ通信施設内にある洞穴内の湧水。村史によると沖縄戦で村楚辺の指定避難所で、避難した住民のうち4家族8人が「入水自決」で犠牲になった。