【読谷】「もうダメだ、自分たちで死ぬほかない」-。沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」が起きた村波平のチビチリガマ。本島に上陸した米軍が侵入すると、追い詰められた住民らが肉親を手に掛ける悲劇が起きた。家族で避難していた上原進助さん(87)=米ハワイ州在住=が国際電話で取材に応じ、チビチリガマで見た光景を語った。

ガマの中に設けられた祭壇に手を合わせる遺族ら=3日午後1時10分ごろ、読谷村波平のチビチリガマ(代表撮影)

 1945年4月1日、母や妹ら家族とチビチリガマに避難していた上原さんは、米兵と戦うために竹やりを持って出た住民2人が銃で撃たれる音を聞いた。ガマは静まり返り、住民らに絶望感が広がった。翌2日、米兵が「出てきなさい」「殺しはしない」などと日本語で書かれた紙を持ってガマに入り投降を呼び掛けた。だが「捕まれば残酷な殺され方をする」との教えが徹底されていた住民らは応じなかった。

 激しく動揺した住民らの中に、毒薬注射を手にする看護師の女性の姿があった。肉親らに打つ姿に「私も死にたい」と上原さんも注射を待つ列に並んだ。上原さんの番になったが退けられ、看護師は最後に残った分を自分で打った。

 「アンマー」と泣き叫ぶ声が響き、娘を刃物で切り付ける母親の姿もあった。住民らが極限状態に追い込まれ、毛布などに火が付けられるとガマに煙が充満した。息ができず苦しむ中、母親が「暗い所で苦しむより明るい所で死のう」と外へ逃げ、上原さんたちは米軍の捕虜になった。

 肉親を手に掛けた当時の状況を「米軍に捕まったら天皇陛下に恥をかかせることになるから、自分の始末は自分でするべきだと大人から教えられた。あの時の教育は本当に愚かだった」と振り返る。平和を希求する一人として現在はハワイで牧師として活動する上原さん。3日は、ハワイからチビチリガマでの犠牲者の御霊の冥福を祈った。(社会部・大城志織)