米軍普天間飛行場の返還問題で、1999年に名護市辺野古への移設受け入れを表明した元知事の稲嶺恵一氏(87)に、県政と記録の残し方について聞いた。(聞き手=政経部・下地由実子、肩書は当時)

 -普天間問題を振り返り、県の記録の残し方を考えたい。

 「普天間問題は好意から始まった。橋本龍太郎首相は沖縄を何とかしたい思いが強かった。今考えると、それが問題を複雑にした」

 「橋本さんは諸井虔秩父セメント会長を那覇に送って、大田昌秀知事の真意(最も実現させたい負担軽減策)を探った。大田さんの本音は普天間返還だった。橋本さんは『やろう』と言い出した。防衛省も外務省も誰も相手にしない。だから、モンデール駐日米大使に話し、クリントン米大統領の了解を取った」

 -日米が全面返還に合意した。

 「日本側は県内移設を条件にせざるを得なかったが、大田さんの態度が非常に曖昧だった。それは、僕はよく分かる。政府がここまでしてくれた。否定したら終わる。つなぎつつ何とかしようとした」

 -分岐点は。

 「98年2月の名護市長選だ。大田さんが直前に県内移設反対を表明し、政府は『大田憎し』になった。無理な話を進めたのに土壇場で(ちゃぶ台返しをして)けしからんと。橋本さんは『だまされた私がばかだったのか』と言ったそうだ」

 -大田知事と橋本首相は何度も会談した。

 「1対1で17回だ。でも本当の腹と腹で交わっていなかった。橋本さんは、『イエス』の返事は聞いていないが、これだけしているのだから、大田さんは受けてくれると信じていた」

 -会談の記録は。

 「ない。大田さんは誰にも話していない。内容は分からない。名護市長選の直前まで、県内移設案にはっきり『ノー』と言っていない。県は本当に『ノー』だったのか。言い切れない。記録がないので、推測するしかない」...