[那覇まち探訪 市制100年の歩み]国際通り(上)

1934年に開通した新県道。現在のむつみ橋より松尾方面を望む(新嘉喜祐司氏所蔵・那覇市歴史博物館提供)

 ぽつぽつとまばらな民家に、リュウキュウマツが立ち並ぶ何もない一本道-。1943年、14歳だった浦崎政克さん(91)は、当時通った那覇と首里を結ぶ「新県道」の印象を覚えている。トラックを改造したバスが行き交う狭い道幅。「松尾三差路辺りでは、首里から来たバスを通すため、すれ違いざまに畑に飛び降りて道を空けた」。狭く殺風景な通りは目覚ましい復興を遂げ、後に「奇跡の1マイル」と呼ばれる「国際通り」に変わった。

【関連】「これがなければ神里原が那覇の中心街になっていたかも」

 国際通りで約60年続く老舗土産品店「守礼堂」会長の浦崎さんは、石垣島から挺身(ていしん)隊として東京の軍事工場に派遣される際にわずか2カ月間立ち寄った那覇で、ただ一度、新県道を通っていた。

 辻町にあった宿舎から那覇警察署前を通り、安里向けに友人と歩いた。県庁付近で県立第一高等女学校(一高女)の女学生と共に防空壕を掘る日々。「遊んだ記憶はない」が、なぜか新県道を通った記憶は残る。「あの頃の記憶があることも通りへの愛着につながっているのかも」。これまで国際通りの活性化に努めてきた浦崎さんと、通りとの最初の出合いだった。

 終戦後に東京から沖縄に戻り、48年に再び新県道に立ち寄った。同年に開館した戦後沖縄初の映画館「アーニー・パイル国際劇場」で映画を見るためだった。

 「那覇に劇場ができた」。誰から聞いたか、天願(現うるま市)で軍作業をしていた浦崎さんの耳にも情報が入った。安慶名からコザ、那覇とトラックバスを乗り継ぎ新県道に向かった。横倒しされた木の電柱をいす代わりにした劇場は青空天井。スクリーンの部分にのみ雨風をしのぐためのテントが張られていた。

 当時、中部から那覇を訪ねることはめったになく、次に国際劇場に足を運んだのは約2年後。劇場向かいには新しい材木店ができ、道には横文字の大きな看板がずらりと並んでいた。浦崎さんも通りの変化に「復興の早さを感じた」。この頃から、通りは劇場にちなんだ「国際」の名の付く通り会が結成され、「国際通り」と呼ばれるようになる。(社会部・勝浦大輔)

 那覇市は20日、市制施行100年を迎える。沖縄戦や米統治時代、復帰の荒波をくぐり抜けながら今日まで変化を続ける。経済、歴史、文化が交差し、さまざまな表情を見せる県都の歩みを連載で紹介する。