[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1)

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

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 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

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 遺骨への思いは末弟に対してだけではない。当時38歳だった父・玉城蒲吉さんも見つかっていない。

 色白で“イケメン”だった父。畑仕事がない日は一緒に遊んでくれた優しい人だった。「カマスケ」という毛並みの良い馬を飼い、新品の馬車も持っていた。そんな父が大好きだった。

 父は44年10月ごろ軍に招集された。冬に馬車を取りに一度だけ戻ってきた。出発前、上原さんの頭を優しくなでながら「お母さんの言う通り、お利口にしてね」。これが別れとなった。

 父がその後どこに行き、どこで亡くなったのかは分かっていない。戦争で自宅は燃え、父の写真や遺品は全て焼失。父のぬくもりや思い出を感じられる物は何一つ残っていない。

 万年筆や衣類、馬車の部品、何でもいいから見つけたい-。そんな思いで、20年ほど前から遺骨収集に携わった。同じように沖縄で遺骨を探す人のため、そして父の手掛かりを探すため。自らガマに入った。

 高齢になり、最近は自ら探すことは減ったが、まだ希望は捨てていない。「戦後76年。難しいのはもちろん分かっているけれど、簡単には諦められないさ」(社会部・山中由睦)

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 戦後76年がたった今も、県内では沖縄戦で亡くなった約3千人の遺骨が見つかっていない。大切な人の足跡や生きた証しを求め、いまだ多くの人が遺骨を探している。その思いと遺骨収集の現状や課題に迫った。

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