[証を求めて 戦後76年遺骨収集]

沖縄戦で亡くなった兄・安村昌範さんの遺影を手に「兄の遺骨を探したい」と思いを語る新垣宏子さん=2日、糸満市の自宅

 優しかった兄はどこで死んだのか。なぜ「石ころ」が古里に帰ってきたのか-。

 沖縄戦で兄・安村昌範(しょうはん)さんを亡くした糸満市の新垣宏子さん(93)。死んだ場所は分からず、遺骨もない。戦後76年の今、兄の面影をたどるうちに、薄れていた記憶とともに諦めていた思いがよみがえった。「生きている間に、兄の骨を探したい」。海軍兵だった兄の最期の手掛かりを求めて今年、動きだした。

 新垣さんは旧仲里村(久米島町)出身。1943年に久米島を離れ沖縄師範学校女子部に入学した。5歳上の昌範さんは、20歳で海軍兵として長崎県佐世保に召集された。

 「大柄で優しくて面倒見も良く、みんなに慕われていた」という昌範さんと最後に会ったのは44年、10・10空襲後の11月ごろ。沖縄師範学校に通っていた2歳上の兄・昌享(しょうきょう)さんと訪ねた那覇市垣花の民家で「海軍沖縄方面根拠地隊」の下士官付きの兵士として働いていた。覚えているのは「早く家(久米島)に帰りなさい」と、ボンタンアメ一箱とせっけんを手渡してくれたこと。「じゃあまたね、という感じ。特別に変わった様子はなかった」が、今振り返れば、弟妹の身を案じていたのかもと思う。

 12月ごろ、学校から両親との面会が許可されて久米島に帰郷し、終戦を迎えた。「国のために働くのが当たり前の時代。学校から『戻ってきなさい』と電報が来ていたら戻っていた」。同窓生は「ひめゆり学徒隊」として動員された。

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 糸満高校に編入した後、家族から「昌範が戦死して箱が届いたが、中には石ころが入っていた」と聞いた。「兄はどこで死んだのか。海の上だったから骨がないのか」-。やりきれない思いやいくつもの疑問が湧いたが、「戦争はこんなものだ」と自分に言い聞かせた。大切な息子を亡くして悲しみに暮れる両親の前で、兄や遺骨の話は触れないようにしてきた。

 兄の最期を知る人が具志川村(うるま市)にいると聞いて探したこともあったが、見つからなかった。「実はどこかで生きているのでは」と思うこともあったが、日々の生活の忙しさの中で沖縄戦当時の記憶は薄れ、遺骨のことを考えることもなくなった。95年、糸満市摩文仁に「平和の礎」が建立されてからは「ここに兄は眠っている」と思って参拝してきた。

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 80歳を過ぎて体調を崩した頃から、故郷の久米島のこと、沖縄戦で亡くした兄のことを思い起こすようになった。ボランティアで遺骨収集を続ける具志堅隆松さんの活動を知り、今年、約4千人の兵士が亡くなった豊見城市の旧海軍司令部壕や周辺に遺骨が残っているかもしれないと聞いた。「できることをやろう」としまっていた兄の写真を引っ張り出し、遺族の一人として今月10日、「まずは調査を」と県に壕の再調査を要請した。兄の遺影を手に、涙ぐみながら訴える。「私はこのために生かされていたのかもしれない。兄の遺骨を探して、亡くなった母に報告したい」(社会部・大城志織)