[証を求めて 戦後76年遺骨収集]

魂魄の塔の前で、戦後直後の遺骨収集の状況を話す翁長安子さん=糸満市

旧具志頭村(現八重瀬町)の病院壕内の遺骨安置所=1948年撮影(県平和祈念資料館提供)

沖縄戦の主な慰霊塔や墓苑

魂魄の塔の前で、戦後直後の遺骨収集の状況を話す翁長安子さん=糸満市 旧具志頭村(現八重瀬町)の病院壕内の遺骨安置所=1948年撮影(県平和祈念資料館提供) 沖縄戦の主な慰霊塔や墓苑

 梅雨の中休みで、青空が広がった6月上旬。水を注いだコップを慰霊塔「魂魄(こんぱく)の塔」(糸満市米須)に置くと、翁長安子さん(91)=那覇市=は75年前の光景を静かに思い起こした。

 戦後、この一帯の遺骨を探し集め、魂魄の塔に納めた。「皆さんの亡きがらを拾ったあの時の高校生です。また来ました」。今も年に10回以上は足を運び、手を合わせている。

 ただ、伝えることはずっと変わらない。「生かしてもらった使命として、お骨を拾い上げた。二度と弾の雨が降る戦が起こらないよう、見守ってください」

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 15歳の翁長さんは特設警備第223中隊の一員として炊事などに従事した。米軍の攻撃で背中にけがを負いながら首里から本島南部に避難。1945年6月22日、米軍の捕虜になった。

 石川収容所(現うるま市)で半年以上過ごし、翌年1月、翁長さんが住んでいた真和志村の住民は、現在の糸満市米須辺りに集まるよう知らせを受けた。

 トラックで運ばれて到着。知り合いの顔を見つけて涙を流して喜んだが、目線を下に移すと、道は白骨だらけ。割り当てのテントに向かう草むらには、足の踏み場もないほど落ちていた。「自分もこうなっていたかも」。放っておけない気持ちが込み上げた。

 同じ思いを持つ人たちは他にもいた。収集した遺骨にお経をあげた住職・田原惟信(ゆいしん)さんは、当時のことを81年の本紙で回想している。「死者は私たちの身代わり。収骨供養は生存者の責務だ」。その時の金城和信・真和志村長と共感し合ったと振り返っている。

 金城村長の息子、和彦さんの著書によると、村長が「もう敵も味方もない。亡くなった人への深い心は、アメリカ人であっても同じ」と米軍と交渉した事実が、村長の妻ふみさんの手記に残っている。村は米軍から許可をもらい、約100人の納骨隊を編成した。

 翁長さんも糸満高校真和志分校に通いながら収集に加わった。遺体を肥料にして植物が育ち、草が生い茂る場所には大抵骨があった。岩陰、木の下、小屋の中。爆撃を避けられず、亡くなった様子が目に浮かんだ。

 ミニトマトが実った畑からは、大きな頭と小さな頭二つの骨が見つかった。髪の毛から母親と子ども2人だと分かった。「お母さんはどんな思いで亡くなったのだろうか」。それを考えると、今も胸が苦しい。

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 当時14歳の大城藤六さん(90)=糸満市=も「戦後最初の仕事は遺骨収集だった」と振り返る。

 糸満市の真栄平地区でも、道路や田畑などに散在した遺骨を住民たちがかき集めた。集落前に集めていたが、大雨で腐り、臭いが強くなったため、戦時中に住民が避難していたガマへ。ここは納骨堂と呼ばれ、66年に地元住民によって恒久的な慰霊塔「南北之塔」が建立された。

 大城さんはその後、遺骨収集ボランティアにも携わり、80歳を超えても続けてきた。「何も言えず沖縄戦で死んでしまった方がいる。遺骨収集は、まだ終わっていない」。今も地中に眠っているであろう遺骨に思いをはせた。(社会部・山中由睦、大城志織)