[証を求めて 戦後76年遺骨収集](3)

遺骨収集への思いを語る具志堅隆松さん=5月22日、糸満市束里

歯や頭蓋骨の一部など見つかった遺骨を説明する具志堅さん=5月22日、糸満市束里

遺骨収集ボランティアのフローチャート

遺骨収集への思いを語る具志堅隆松さん=5月22日、糸満市束里 歯や頭蓋骨の一部など見つかった遺骨を説明する具志堅さん=5月22日、糸満市束里 遺骨収集ボランティアのフローチャート

 「カリカリカリ…」。両膝を地面に突き、片手に鍬(くわ)を持って少しずつ、表面の土をかき分けて、出てきた数センチのかけらにじっと目を凝らす。「紛らわしいけれど、これも骨だよ」。戦後76年がたつ今でも、沖縄戦で犠牲になった人の骨が県内各地で見つかっている。約40年にわたり遺骨収集ボランティアを続ける「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さん(67)の遺骨収集活動だ。

 訪れたのは、糸満市束里の束辺名集落にある旧日本軍の壕。具志堅さんは約3年前からたびたび訪れているといい、周囲は雑木林に囲まれ、草を分けながら険しい斜面を金属探知機と鍬を手に軽快に登っていく。沖縄戦直後は住民の手で収集されてきた遺骨。だが「普段の生活で入らない場所では長い間、遺骨収集されないまま。後回しになった丘陵や壕などは今は木々が生えてきて、収集が難しくなっている」と語る。

 金属反応があった周辺の土や砂を鍬で掘り起こす。数分ほどで出てきた茶色のかけらを手に取ると「これは頭蓋骨」と記者に手渡した。「(骨の)表と裏に間があり、その中に細かい泡のような穴が見えるでしょう。海綿状になっている。これが骨の一部」。じっくりと手に取って眺めても、素人目では石と骨の判別が難しい。周辺では他にも側頭骨の一部や大人のものとみられる歯が見つかった。頭に着けたライトで照らして真っ暗な壕にも入り、作業を進めた。

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 28歳の時、県外から来た沖縄戦の遺族らの手伝いでボランティアに参加したのをきっかけに遺骨収集に携わるようになった。今も週に1度は、遺骨収集で本島南部を訪れる。骨の部位を判断するため、自宅で時間のある時には手足の骨の模型をバラバラにして組み立てているという。遺骨収集に取り組み39年がたつが「以前収集した場所でも、また調べてみると小さい骨がいっぱい出てくる。自分たちの代で遺骨収集を終わらせるのは無理だな」と顔を曇らせる。どうしたらいいのか-。言葉を続けた。「遺骨収集を平和の授業として次世代に引き継いで継続すべきだ。沖縄戦体験者が亡き後、戦争の実相を確認できるのは遺骨収集の現場ではないか」

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 具志堅さんらボランティアのおかげで、戦後70年に家族の遺骨が返ってきた遺族もいる。浦添市の保志門繁さん(90)は沖縄戦で家族4人を亡くした。当時4、5歳だったという妹の節子さんは避難していた八重瀬町新城の壕で砲弾の破片が当たり、即死。父に言われ、14歳だった保志門さんが壕近くに埋葬し、戦後も場所を覚えていた。

 しかし戦後すぐには節子さんを埋葬した壕周辺に立ち入ることができず、次第に周辺は草が生い茂り、1人での収集は困難に。亡き母はずっと妹の遺骨が気掛かりだった。具志堅さんの活動を報道で知り、6年前に依頼。場所を案内し、数回の収集活動で子どもの頭蓋骨の一部を発見、妹のものだと確信した。「収集をしてくれた皆さんにはご苦労をさせたな。だけども、見つかって安心した」。胸のつかえが取れた。遺骨は門中墓に納め、亡き両親に報告した。

(社会部・大城志織)