[戦後76年]

切断した足を優しくなでながら、沖縄戦当時を語る玉那覇政子さん=15日、西原町の自宅

 西原町の玉那覇政子さん(84)は、沖縄戦で米兵が撃った弾が左足を貫通する大けがを負った。その左足を引きずるように歩きながら、戦後も子育てや家事と懸命に生きてきた。しかし、戦後70年以上がたった2018年、骨髄炎と診断されて左足の膝から下を切断した。受けた苦しみを抱えつつ、戦後76年の今、平和を願う。(社会部・大城志織)

 1945年6月下旬ごろ。家族と摩文仁の山の中に隠れていた。祖父が「どうせ死ぬなら自分の集落に帰った方がましだ」と呼び掛け、夜中に山を下りることになった。外に出ると照明弾が上がり、小銃の音が鳴り響いた。玉那覇さんは片足を撃たれ、必死に地面をはって逃げた。

 1人で1週間ほど逃げ続けた。足にはハエが群がった後に「皮膚が見えないくらいうじ虫が付いていた」。木の枝を使い、うじ虫を一生懸命に払っているところを米兵に見つかり、捕虜に。宜野座の軍病院に移された。

 弾は左足のくるぶしに当たり、足の裏に抜けた。包帯は真っ黒な膿(うみ)ですぐに汚れ、何回も巻き直された。手術台に乗せられて「私の足を切らないで。切るんだったら私を殺して」と必死に泣き叫んだ。沖縄戦で両親を失い、きょうだいで生き残ったのは妹だけ。そんな境遇に医師は同情したのかもしれない。足はそのまま残った。

 足裏には7センチほどの裂けた傷が残り、中心は穴が開いた。薬を買うお金がなかった戦後は、ハブの油や豚の脂と塩を混ぜたものを塗ってきた。左足を引きずるように歩く日々。痛みが和らいでも、悩みは一日たりとも心から離れたことはなかった。沖縄戦で負ったけがだが、国の補償も受けられなかった。

 25歳で結婚し、子宝に恵まれた。約50年前に1度、足の痛みがひどくなり、医師から切断を勧められたが「子育てや家事ができなくなる」と拒んだ。

 だが2018年。いつもは数週間で治まる痛みやかゆみが3カ月たっても治まらなかった。3カ所の病院で「骨髄炎で、切るしかない」と診断された。家族からの勧めもあり「このままでは体に負担がかかってしまう。体力があるうちに」と、膝から下を切断した。

 最近では義足になった左足にもなじみ、歩くのも楽になってきたと感じる。だが時折、ないはずの足先に、痛みやかゆみの感覚がよみがえる。「戦争は絶対にいけない。苦しみは生涯続くんだから」