1969年7月8日に発生し同月の米紙報道で発覚した沖縄県の米軍知花弾薬庫(現嘉手納弾薬庫)の毒ガス漏出事故で、それ以前にも同様の事故が発生していたことが分かった。我部政明琉球大名誉教授が入手したランパート米高等弁務官(当時)の口述記録に、事故は「初めてではなく、過去にもあった」との軍側発言が記されていた。毒ガス漏出が同事故以前にも発生していたことが公式記録で明らかになったのは初めて。

星条旗

■ウォールストリート・ジャーナルの報道で判明

 口述記録は米国陸軍軍史研究所に所蔵された75年5月作成の文書。69年の事故後、米陸軍補給部隊の司令官ホーナー少将から、事故について「初めてではない。過去にもあった。海上で投棄する方針だ」と、報告と処理方針を伝えられたことが記録されている。事故の詳細や被害状況など詳細な記述はない。

 23人の米兵と1人の軍属が被害に遭った同事故については、発生10日後の同年7月18日付米紙ウォールストリート・ジャーナルの報道で明らかになった。

 我部氏が入手した報道前日作成の米国務省の公電には、同紙に対し「報道を思いとどまらせるために高レベルの努力をした」と、米政府ぐるみで同紙に報道しないよう圧力をかけたとみられる記述もあった。我部氏は、それまでの事故も含め隠蔽(いんぺい)を続けた米側の姿勢について「(当時の沖縄に)化学兵器を大量に貯蔵していることを公にしたくなかったのだろう」との見方を示した。

 事故の報道を機に沖縄での多量の毒ガス貯蔵が発覚すると、生活圏の近くに大量破壊兵器が存在することに県民世論の反発が高まり、米軍は国外に毒ガス兵器を撤去する「レッドハット作戦」を2次にわたり実施した。2次移送は50年前の71年7月15日開始された。

■現在に通じる米軍の姿勢

 1969年7月に米軍知花弾薬庫で起きた毒ガス漏出事故以前にも米側が公表していない事故があることが明らかになった。記録には報道機関に報道を思いとどまるよう圧力をかけたとみられる記載もある。危険と隣り合う県民にその詳細を知らせようとしない米軍の姿勢は、普天間飛行場におけるPFOS(ピーホス)放出計画や渡名喜島沖のコンテナ落下事故などが起きる現在にも通じる。

 米側が事故を公にしたくなかった背景には、日本復帰に向け、日米両政府が沖縄返還協定へ交渉していた期間と重なることが影響していたとみられる。事実、事故が報道されると「核抜き」と同様毒ガスの撤去を求める声は復帰運動に大きなうねりを生み出した。

 我部政明琉球大名誉教授は、報道以前は毒ガスや事故の発生を伏せたまま「静かに撤去」しようとした米側が、報道されたことで逆に施政権返還の成果としてアピールする「仰々しい撤去」へ転換したとみる。ただ、アピールの一方で今回のように「静かに」処理された事故がどれだけあったかは分からないままだ。

 現在も米軍基地内には人体に有害な有機フッ素化合物PFOSなどが存在し、県民は危険と隣り合わせの生活を強いられ続けている。だが地位協定の壁に阻まれ、日本側はその量すら容易には調べられないのが現状だ。

 2020年4月に米軍普天間飛行場からPFOSなどが基地の外へ流出した際、県が事故現場での調査を認められたのは発生から11日後。21年6月にうるま市の米陸軍貯油施設から流れ出た事故では、日本側への連絡は翌日だった。

 日米地位協定で、日本が米軍基地の運用に口出しできない「排他的管理権」を認めていることが問題の根源だ。毒ガス事故発生時も、施政権が日本に返還されたはずの今も、米軍側に大きな裁量があり、住民の安全が脅かされている状況は変わらない。(中部報道部・屋宜菜々子)