東京五輪が閉幕した。
力を尽くした選手たち、力を出し切れずに無念の敗北を喫した選手たち。アスリートが紡ぎ出す個々のドラマこそが「スポーツの力」なのだと改めて思う。
空手の男子形で金メダルを獲得した喜友名諒選手や、最終日のマラソンで持てる力を出し切って6位入賞した大迫傑選手らの姿は胸を打つものがあった。
日本選手の活躍に沸いたサーフィンやスケートボードは、「遊び」が「オリンピック種目」となった競技である。競技人口が増えていけば、五輪ファンの「若年化」が進むことも予想される。
結局のところ東京五輪はどう評価されるべきなのか。
政府は選手の活躍やメダル数をもって「成功」と評価するかもしれないが、それと大会そのものの評価は、厳密に分けて考えるべきだ。
東京五輪は全体としてみれば、あまりにも「いびつな五輪」だった。
新型コロナウイルスの感染拡大で、本来の2020年開催は1年延期された。
「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして、完全な形で東京大会を開催したい」
政府はそう強調していた。だが、コロナ対策の失敗で緊急事態宣言下の無観客開催を余儀なくされ、当初のもくろみは実現できなかった。
「復興五輪」のスローガンも掛け声倒れに終わった。
コロナ禍の五輪開催が国民の分断を生み、「感動で、私たちは一つになる」という大会モットーもむなしく響いた。
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各国の選手たちと、それを受け入れる地域の人々の交流は、後々まで子どもたちに強い印象を残す。
オリンピックの開催意義は実は、競技以外のそんなところにもあるが、コロナ禍の東京五輪は、交流イベントが中止に追い込まれたりして大きな制約を受けた。
女性蔑視発言や耳を疑うようないじめ問題、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)をコントのネタにしていた過去が発覚するなど、開催国として国際的な信用を失墜させるような大会組織委員会のスキャンダルも相次いだ。
菅義偉首相は「安全・安心な大会を実現する」と強調しながら、野党が求める国会出席には応じず、医療供給体制が危機的状況にあるにもかかわらず、国会で説明責任を果たすことがなかった。
コロナ対応についても、五輪についても、菅首相から説得力のあるメッセージはなかったと言っていい。
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1年延期したこともあって開催費用は大幅に膨らんだ。関連支出も含めると3兆円に上るともいわれている。
900億円の入場料収入も大半が消えた。政府が負担するにせよ東京都が肩代わりするにせよ、そのツケは納税者である国民、都民に回る。
海外からの観客を断念したことで、経済効果も期待外れだった。
「コロナ禍の無観客五輪」は、想定外の代償を支払わされることになった。菅首相出席の下での、国会での検証と総括論議が欠かせない。