沖縄県国頭村奥間の大田吉子さん(87)=旧姓・宮里=は、母親のカマトさん(享年94)が残した着物と帯を今でも大切に保管している。76年前の沖縄戦で読谷村から避難してきた家族から「米と交換してほしい」と懇願され、カマトさんが受け取ったが、戦後も常々「どこかで元気にしていると思う。返したい」と話していたという。今となっては持ち主につながる手掛かりがないが、吉子さんは「できることなら母の遺志をかなえたい」と話している。

母が大切に保管していた着物と帯を手にする大田吉子さん、孝全さん夫妻=国頭村奥間

 吉子さんは当時11歳。両親と姉2人の5人家族で、村奥間ターブックで稲作をして暮らしていた。

 父の蔵吉さんは沖縄戦で防衛隊に招集された。米軍上陸後、吉子さんは母子3人で集落の人々と奥間山へ避難。戦闘が終わり、6月になって山を下りると、自宅は全焼していた。隣家は残っており、家主夫婦が部屋を提供してくれた。

 間もなく読谷から10人ほどの家族が「助けてほしい」と訪ねてきた。家主は温かく受け入れ、3世帯の共同生活が始まった。読谷からわずかな食糧と衣類などを持参していたが、食糧はすぐに尽きてしまったという。

 その家族の母親は、祭りで着る大切な着物を出し「どうにかして生きたい。この着物と米3升を交換してほしい」と嘆願した。カマトさんは「命はみんなのもの。米はあげるので着物は返します」と断ったが、かたくなに受け取らなかった。

 カマトさんは着物をタンスの中に大切にしまい、時々取り出しては家族の無事を祈っていたという。94歳で天国へ旅立った後も、吉子さんが保管し続けている。

 村制施行100周年記念史「くんじゃん」の編さん委員長を務めた宮城克松さん(83)によると、1944年の10・10空襲後、続々と避難民が北部へ移動してきた。45年2月、国頭村長が各区長に出した通知では、読谷や那覇、浦添、与那城、勝連から計約1万8千人の疎開者が各集落の既設の建物や学校、新設の仮小屋などに割り当てられた。

 避難民は疎開割り当て以上に殺到し、国頭の山中の道は人であふれていたといい、当時の村民約1万人の1年分の食糧が、わずか2カ月でなくなったという。

 吉子さんは夫の孝全さん(91)と共に、地域の小学校で「悲惨な戦争の反省から命を大切にし、戦争のない世の中にしてほしい」と沖縄戦を語り継いでいる。(山城正二通信員)