今から50年前、沖縄では「日本に復帰したら雪が降る」といううわさ話が広まっていた。誰が、どうやって広めたのか? 真相を探ろうと私たちは街に出た。

 私たちは沖縄タイムスとNHK沖縄放送局の記者や職員が参加する「#復帰検定」取材班。来年50周年の節目を迎える「復帰」を、県内外の若者たちに知ってもらうため結成された。

 しかし取材は出だしからつまずいた。「笑わすなよ! そんな話は聞いたことない」「雪が降るわけがないでしょ、誰が考えても。地形が違うんだもの」「信じるわけないさ。沖縄は沖縄。結局ね、根拠はないと思うよ」

 うわさを知っている人には出会えない。企画は成立するのか…雲行きが怪しくなったころある人物にたどり着いた。当時高校生だった、まちづくりNPOコザまち社中理事長の照屋幹夫さん(67)だ。「子どもたちがコザの商店街で話しているのをよく耳にしたよ」。この瞬間、私たちの取材が動き出した。

 来年2022年5月に沖縄は日本に復帰して50年の節目を迎える。独自の歴史を歩んできた沖縄の今につながる「復帰」は、県民や沖縄社会にどのような影響を及ぼしてきたのか。読者の疑問に答える形で復帰に関するさまざまな「謎」を解明する「#復帰検定~オキナワココカラ」。初回は、復帰時に沖縄の子どもたちの間で広まった「うわさ」について。今から50年前、まだSNSのない時代に、どんなうわさが、なぜ広まったのか-。

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当時を知る人に話聞く

 「沖縄が日本に復帰すると、雪が降る」。復帰当時に広がったさまざまなうわさはどのように広まっていったのか-。真相を探るべく、復帰当時を知る人々に話を聞いた。まず足を運んだのは、沖縄市にある商店街「一番街」。当時「コザ」と呼ばれた街は、ゲート通りやBC通り(現中央パークアベニュー)などに米兵相手の商店が軒を連ねていた。

 一番街にある「まちづくりNPOコザまち社中」理事長の照屋幹夫さん(67)は、復帰当時、高校3年生。一番街周辺の「センター地区」(現沖縄市中央)が地元だ。

 米兵相手の商売をしていた多くの人々は、「復帰すると売り上げが減るのでは」と心配していたという。大人たちの不安げな様子に、子どもたちも敏感に反応した。

 当時米兵向けのレストランを経営していた照屋さんの両親は、復帰直後の1972年6月ごろ、日本人観光客向けの民芸品店に切り替えた。「もっと幼かったならその意味も分からなかったんだろうけど…」。高校3年生だった照屋さんには、迫りつつある変化がはっきりと見えたという。「復帰すると社会が大きく変わるんだということが、大人たちの行動や見聞きする全ての情報で、リアルさを持って実感できた」


大人たちの冗談か

 そんな時、同時に耳に入ってきたのが「雪のうわさ」だった。商店近くで大人たちが、子どもたちに「復帰すると雪が降るかもよ」と話しているのをよく耳にした。

 社会が大きく変わることを、「暖かい沖縄で雪が降るくらいの変化」に例えた大人たちの冗談だったと照屋さんは考えている。しかし、「『そうなんだ』と、納得している子どもが多かった。それぐらい『復帰』は、誰にとってもインパクトがあったんですよ」

 当時の子どもたちは放課後、みんな外で遊んでいた。照屋さんは「放課後は、違う学校に通う子たちとも遊んでいたので、雪のうわさはそこで広まったのかもしれない」と推測した。

 一方、復帰を機に「米軍関連の事件・事故が減るのでは」との期待も、高校生だった照屋さんの同級生たちの間では広がっていた。復帰の2年前1970年には「コザ騒動」(※注釈1)を目撃した照屋さん。「米兵は何をしても裁かれないという状況が変わるのでは、とみんな期待していた。でも、復帰後もそれは全然変わらなかったね」とぽつりと語った。


同時多発的に各地で拡散

 復帰当時、宜野湾市に住み、普天間小学校4年生だった平良次子さん(59)も、雪が降るといううわさを覚えている。「子どもだからこそ、復帰するとどうなるかということがよく分からなかった。それでも、『大きく社会が変わる』という気持ちを共有していたからこそ、同時多発的に沖縄各地でそんなうわさが広まっていたんじゃないかな」

 基地で働いている親がいる同級生たちは当時、「親の仕事がなくなるのではないか」と心配していた。「復帰すると米兵がいなくなると思っていたが、そうはならなかった。復帰で結局何が変わったのかな、という気持ちも残っている」と複雑な気持ちを吐露した。

 小学校のクラスでは「復帰すると名字の読み方が変わる」とのうわさ話も広まった。実際に、桃原(とうばる)さんという同級生の実家の看板の読み方は復帰前後に「桃原(とうばる)瀬戸物店」から「桃原(ももはら)瀬戸物店」に変わった。「私の名字も、復帰したら『たいら』が『ひらら』になるのかなと、少し思っていました」と笑う。

 同級生の実家の看板の読み方が変わった理由は今も知らない。しかし当時、「復帰」という大きな変化に際して、子どもたちも身の回りの変化に敏感にならざるを得なかったのでは、と推測した。


街に雪やってきた

 復帰から数年後、実際に雪を見た人も。沖縄市の一番街でオキナワムームーの店「ラ・セーヌ」を営む平良みどりさん(54)は、一番街でかつて開催されていた「雪まつり」を覚えている。「これが雪なんだ、とすごくうれしかったですね」

一番街の「雪まつり」に参加する子どもたち。開催時は行列ができたという=1985年ごろ、沖縄市中央(沖縄市一番街振興組合提供)

 沖縄市一番街商店街振興組合によると、沖縄県内の商店街で初めてアーケードが誕生した1975年から、約30年にわたり雪まつりは開催された。後に県内各地で開催される大規模な「雪イベント」の先駆けだ。

 「雪まつり」は北海道から雪を直送してもらい、全長約30メートルの雪の滑り台も設置された。開催時は子どもたちの長蛇の列ができた。

 当時、商店街の組合メンバーとして雪まつりの運営に関わった、一番街商店街振興組合前理事長の平安山謹(のり)さん(77)は「子どもだけでなく、大人もみんな一緒に喜んでいた」と回想する。

 沖縄の人々の雪への憧れは、社会が大きく変わることへの不安と同時に、まだ見ぬ「復帰」への期待の表れだったかもしれない。それぞれの人々の「雪のうわさ」体験から、そんな思いが浮かんできた。(社会部・豊島鉄博)

◇ことば

(注釈1)コザ騒動 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)で起こった米軍車両の焼き打ち事件。米軍による人身事故を発端に群衆の怒りが噴出し、同日未明から明け方にかけて数百人が米軍車両約80台を焼き打ちにした。死者や略奪行為はなかった。