戦時中に朝鮮半島から沖縄に連れてこられた元日本軍「慰安婦」で、戦後も沖縄で暮らした裴奉奇(ペ・ポンギ)さん(1991年10月18日に77歳で死去)の30年忌に合わせた追悼シンポジウムが20日、南風原町立南風原文化センターで開かれた。ペさんが亡くなるまで17年にわたり交流した金賢玉(キム・ヒョノク)さんらが登壇し、ペさんをしのぶとともに、戦時下の性暴力の実態に向き合い継承していく重要性を訴えた。130人余が聞き入った。

ペ・ポンギさんの足跡を振り返る(右から)司会の安里英子さんとパネリストのキム・ヒョノクさん、松永勝利さん、高里鈴代さん=20日、南風原町立南風原文化センター

日本軍「慰安婦」の体験を証言した在りし日のペ・ポンギさん=1977年4月(朝鮮新報社撮影、キム・ヒョノクさん提供)

ペ・ポンギさんの足跡を振り返る(右から)司会の安里英子さんとパネリストのキム・ヒョノクさん、松永勝利さん、高里鈴代さん=20日、南風原町立南風原文化センター 日本軍「慰安婦」の体験を証言した在りし日のペ・ポンギさん=1977年4月(朝鮮新報社撮影、キム・ヒョノクさん提供)

 キムさんは出会った頃のぺさんについて、日本の敗戦を「友軍が負けて悔しいさ」と口にし、自身の苦難の境遇を「運命」と語っていたと回顧。ぺさんがキムさんや沖縄の人々と心を通わせ歴史を学ぶ中で、日本政府への怒りを表し、朝鮮半島の平和と統一を願うようになったとし「出会いと話し合いと見聞を通して喜びの晩年を過ごせた」と尊厳を回復していったペさんの生涯を懐かしんだ。

 記者だった98年にペさんにゆかりのある人たちを訪ね歩いて連載にまとめた琉球新報の松永勝利さんは、「被害者」や「慰安婦」といった記号のような捉え方ではなく「ぺ・ポンギさんという一人の人として輪郭を持ち、30年たっても継承しようという人たちがいることについてペさんに感謝したい」と語った。

 県内145カ所にあった慰安所の調査に携わった高里鈴代さんは「植民地の女性たちがあらゆる手段で駆り出された。日本軍が制度としてつくった慰安所は陣中日誌にも記録されており、軍隊にとって必要不可欠な後方施設だった」と指摘した。

 フロアの参加者には那覇市副市長で、28歳の時に生活保護担当としてペさんに関わった久場健護さんの姿も。発言を求められた久場さんは「あの時からペさんが私のどこかに住んでいる」と表現。総務部長だった2015年に市が宣言した「性の多様性を尊重する都市・なは(通称・レインボーなは)」を挙げ「人権は尊重されなければならない。それをぺさんから学んだ」と話した。