1970年代。日本復帰を前後して県内ではホテルや公共施設などの建築ラッシュが到来した。急速なニーズの高まりに人手や建築資材が不足する中、コンクリートの材料として使われたのが塩抜きが不十分な「海砂」だ。その結果、復帰から数十年後、県内各地のコンクリート建築物が塩害で剥落する事故が発生している。
今から約50年前に日本復帰記念式典が開かれた那覇市寄宮の「那覇市民会館」もその一つ。沖縄が日本に復帰する2年前の70年に建設された。「文化の殿堂」として多くの式典や催し物が開かれたが、塩害などによる激しい劣化のため2016年10月に休館を余儀なくされた。
安全性に配慮し館内の一般立ち入りが禁止されている市民会館に7日、同館の設計に携わった崎浜国繁さん(77)=那覇市=と共に入った。沖縄の歴史のターニングポイントとなった場所は今も「復帰」に込めた人々の息づかいをたたえていた。(社会部・玉城日向子)
◆沖縄復帰前後の建築ラッシュ支えた海砂 十数年後に塩害
足元も見えないほど真っ暗な那覇市民会館に一歩入ると、ツーンとほこりっぽいにおいが鼻をかすめた。屋敷を覆う石垣として使われた「ひんぷん」には黒いコケが生えている。床のタイルは所々剥がれ、コンクリートがむき出しになっている所もあった。劣化のため2016年10月から休館している同館。昨年4月に沖縄タイムスに入社したばかりの私は今年12月、記者として初めて那覇市民会館を訪れた。
◆外壁や柱に1メートル超の亀裂
館内の時計は主電源が切られた「6時13分」を指して止まっていた。車両が途切れることのない那覇市の幹線道路に接して建つが、外の喧騒(けんそう)は全く聞こえない。まるで5年前から時が止まったかのようだった。
「海砂で、建物がもう大変になっている」。那覇市民会館の設計に携わった崎浜国繁さん(77)がため息をついた。崎浜さんもこの日、休館以来、初めて館内に入ったという。
会館の北側、那覇市立中央図書館に近い外壁や柱には、長さ1メートル超の亀裂が至る所にあり、今にも崩れ落ちそうだ。外壁が下に落ちるのを防ぐため頭上に張られた二重のフェンスは、天井から剥落したコンクリートで埋め尽くされていた。
◆塩抜きが不十分だった当時の海砂
復帰前後の沖縄は、1975年に開催された「沖縄国際海洋博覧会」を見据えた観光客の受け入れ準備や、急速な経済成長に伴い、建築ラッシュが続いた。
資源が少ない沖縄では、以前からコンクリートの材料として海砂を使用していた。しかしこの時期は、短期間で多くの建物を造るため、塩抜きが不十分な海砂があちらこちらで使われたという。
崎浜さんによると当時は海砂による塩害について十分な考慮がなかった。リスクが認識されたのは復帰から約10年がたった頃。建物の塩分試験が県内に導入された。
50年がたった市民会館は、塩害の影響を如実に語っていた。崎浜さんは、崩れたコンクリートに触れながら「痛々しいね」と寂しそうに何度も繰り返した。
復帰前の沖縄にはパブリックホールとなる施設が少なく、市民会館の建設は県民にとって「悲願」だったという。
1967年に那覇市は県内七つの設計事務所を対象にコンペを実施。1位に選ばれた現代建築設計事務所の案を基に造られた。同事務所で働いていた崎浜さんは、市民会館の設計図の図面引きなどを担当した。
◆沖縄の伝統 現代建築にいかす
事務所が考案したテーマは「沖縄の風土に根差した建築」-。
軒を深くとった雨端(あまはじ)の空間や「ひんぷん」といった、沖縄の古民家の造りをふんだんに取り入れた。
建築資材も県産にこだわった。屋根に使用されたのは与那原産の平瓦、内部の壁に壺屋焼のタイルを張り付け、やんばるに群生するシダ植物のヘゴの装飾を天井に施した。
エントランスや2階に続く内階段は久米島から特別な石材を調達した。「階段は石にして正解だったな」と崎浜さん。頑丈さが特徴という石材でできた階段は、50年経過しても崩れている箇所は見当たらない。
市民会館の代名詞ともなっている「ひんぷん」は、実は会館の外回りを合わせて計6カ所あることを、私は今回初めて知った。積み方に変化を出すため、外回りのひんぷんには勝連のトラバーチンを使用。中のひんぷんには名護市世冨慶の石材を使ったという。
木材の型枠にコンクリートを流し込み、壁などに模様付けするなど細部にもこだわった。崎浜さんは「こだわっていない箇所はない」と誇らしげに語る。
◆補修に膨大な金額「惜しいけど仕方ないね」
「ああ、懐かしい」
音楽・舞踏・演劇の公演などに使用され、日本復帰記念式典の会場になった大ホールに入った途端、崎浜さんが声を漏らした。
ホールのこだわりは音響の良さ。天井や壁は一面木材で造られている。「海の波を表現した」(崎浜さん)天井は緩やかな曲線を描く。
座席の配色をどうするか、設計士らの間で議論を重ねた。当初は真っ赤な布を使用した座席は、約20年後、淡い紫色に変えられた。舞台前からホール全体を見渡した崎浜さんは「壊してしまうのは、本当に惜しい。だけど補修には膨大なお金がかかる…。仕方ないね」。目を赤くして複雑な胸の内を明かした。
来年、日本復帰50年の節目を迎える沖縄。一方、劣化のため那覇市民会館は取り壊すことが決まっている。崎浜さんは「もう二度と建てられない沖縄の宝。こうした建物があったことを後世につないでほしい」と託した。