沖縄戦の実相を後世に伝えてきた「いくさの語り部」が、戦後76年の今年も相次いで亡くなった。

 宮良ルリさんは、看護動員された「ひめゆり学徒隊」の一人だった。ひめゆりの塔がある第三外科壕の数少ない生き残りだ。

 避難先の壕に米軍のガス弾攻撃が容赦なく降り注ぎ、多くの級友を亡くした。

 「生きたいけど生きられない。もっとこんなことをしたい、という夢がかなわなくなるのが戦争だ」。多感な10代で命を奪われた仲間たちの無念さを訴え続けた。

 戦後は教職を経て、ひめゆり平和祈念資料館の証言員に。2010~11年に6代目館長を務めた。「宮良ルリさんといえば、ひめゆりの塔。ひめゆりの塔といえば、宮良ルリさん」と評された。

 「私は伝えるために生かされたと思うようになった」。宮良さんの証言がなければ、ひめゆりの塔の壕で起きた惨事がここまで広く知られることはなかっただろう。

 同じく看護動員された「白梅学徒隊」の一人だったのは、崎山麗子さん。宮城巳知子さん、中山きくさんらと、沖縄戦を体験した元学徒でつくる「青春を語る会」を立ちあげ、凄惨(せいさん)な地上戦を語り継いだ。

 「同級生の大部分が『いよいよお国の役に立てる』と乗り気だった。マインドコントロールされていた」

 10代の少女まで戦場に駆り出した「根こそぎ動員」。その背後にあった軍国主義教育の実態も、私たちに伝えてくれた。

■    ■

 ハンセン病の当事者は、国策の犠牲になった。

 回復者で国立療養所「沖縄愛楽園」(名護市)自治会長だった金城雅春さんは、国の隔離政策が招いた差別や偏見の歴史を伝える啓発活動に取り組み続けた。

 うつりにくいのに「恐ろしい伝染病」というイメージをすり込まれ、元患者や家族は熾烈(しれつ)な差別にさらされた。ハンセン病国家賠償訴訟で顔と名前を出し、愛楽園の原告団長を務めた。

 園を「強制隔離施設」から「ふるさと」に変えようと、患者の権利獲得に奔走。仲間に寄り添い、差別と闘い、開かれた園に変えた。

 「多くの人に園を訪ねてもらい、現場で実態を知ってほしい。それが差別や偏見をなくし、共に生きる社会をつくる一歩になる」

 沖縄戦の実相を伝える企画展も開催し、平和と共生を訴え続けた。

■    ■

 戦時中にサイパンで父を亡くした有銘政夫さんは、戦後に沖縄へ戻ると、両親の土地が嘉手納基地建設のために奪われていた。

 米軍用地の強制使用にあらがう反戦地主として、土地を取り戻す訴訟を次々に提起。「安保が憲法を上回る状態が続いている」と訴えた。その問いは、新基地建設を巡る訴訟で県の訴えを次々に退ける今の司法に通底する。

 沖縄戦の体験者もハンセン病の回復者も、軍隊や権力の危険性を伝え、平和の尊さを訴えた。その歩みを記録し、次の世代へ継ぐのが私たちの役割だ。