[沖縄の生活史~語り、聞く復帰50年]第1部(7)

ジョージ紫さんと平田嗣弘さん(上)

 「あの頃はクラシックだけが音楽だと思っていた。妹たちが聞いていたビートルズは雑音としか思えなかったね」

 1966年、通っていた米軍基地内の音楽学校の発表会で、ショパンの「華麗なる大円舞曲」をピアノで聴かせた少年の名は比嘉常治。沖縄ロックの草分け的存在、ジョージ紫(72)は17歳の頃、レナード・バーンスタインのような指揮者か、天文学者になることを夢見ていた。

 父親はハワイ生まれの日系2世で米軍属、自身は日系3世。米軍キャンプ桑江にあった「クバサキハイスクール」を卒業後、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で数学を専攻し、副専攻で声楽とパイプオルガンを学んだ。

 当時、ベトナム戦争が激化。徴兵は学生にも及び、違法薬物に走る人もいた。「僕にも徴兵の通知が届いて身体検査も受けたが、結果的に免れた。親友だった先輩はベトナムで戦死した。ショックだった」

 いったん沖縄へ帰省すると、琉球放送(RBC)の子ども向け公開番組「オキコワンワンチャンネル」で視聴者から自作曲の募集をしていた。「愛読誌『月刊平凡パンチ』の読者投稿欄で見た詩が気に入って、メロディーが浮かんでポップな曲ができた」。曲名は「ノッポと胡桃(くるみ)と青い空」。友人の勧めで応募した。

 当時、番組プロデューサーだったのが元琉球朝日放送(QAB)社長の平田嗣弘(83)だ。「土着風でもない、本土の歌謡曲とも違うリズミカルで明るさがあった。並外れた才能だと。すぐ採用を決めた」。ジョージは当時、英ロックバンド「ディープ・パープル」に衝撃を受け、クラシックと異ジャンルの融合に可能性を感じていた。

 「ノッポと胡桃-」は、全国デビュー前に番組アシスタントを務めていた南沙織が歌い、レコード収録された。68年のことだ。2年後にバンド「紫」を結成したジョージは「平田さんには恩を感じている。当時なぜ採用したのか聞きたいと思っていた」と平田本人に対面を求めた。

 伝説的ロックバンド「紫」を誕生させたジョージ紫(72)をいち早く見いだしたのは、琉球放送(RBC)の番組プロデューサー兼ディレクターの平田嗣弘(83)だった。...