[心のお陽さま 安田菜津紀](1)
「力は殆(ほとん)ど残っていないはずなのに、立ち上がって手を振り叫びました。“助かる”というよりも、“ああ自分はまだ生きている”という喜びでした」
海で漂うこと4日目の未明、沖縄水産高校の実習船に救助された時のことを、南雅和さんはこう振り返る。南さんの故郷ベトナムでの名は、ジャン・タイ・トゥアン・ビン。東西冷戦が直接の戦火となったベトナム戦争では、北ベトナムが勝利し、南ベトナムの政権関係者だった父は、母と共に収容所に連行された。どれだけ努力を重ねようとも、南ベトナム出身者には、明るい将来の展望は描けなかった。
「新しい場所で、新しい人生を送るんだ。自由なくして、人は人らしく生きられない」。その言葉と共に、密(ひそ)かに南さんの背中を押したのは祖父だった。1983年8月、14歳だった南さんは単身、頼りなげな木造船へと乗り込んだ。105人がぎゅうぎゅうに乗船し、「日本の通勤ラッシュの電車よりも、もっと過密だった」という。
南さんたちを発見した沖縄水産高校の実習船には、すでに定員に近い人数が乗船していた。それでも即座に全員の救助を決め、次の寄港地まで食料などを分け合った。
あれから40年近く。当時、ベトナム含め1万人を超えるインドシナ難民を受け入れてきたはずの日本では現在、難民認定率が1%に満たない状況が続いている。「進歩が見えず悲しい。誰も難民になりたくてなるのではない」と南さんは憂いた。
先日、私が出演したテレビ番組で、「難民に門戸を閉ざし続ける日本が、隣国で起きている弾圧に対し、説得力を持って批判できるのか」と投げかけた後、ネット上では「混同するな」「日本の治安が悪くなる」と排除の言葉が飛び交った。今まさに命の危険が迫る人々に、「それは現地で解決すべき」という悠長な言葉を投げつけることこそ暴力的だろう。東京五輪で盛んに掲げられたはずの「ダイバーシティ」という言葉が、中身を伴わないスローガンで終わってはならないはずだ。(NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト)
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