名護市長選は、現職の渡具知武豊氏が、5千票余の差をつけ、再選された。

 渡具知氏は、辺野古の新基地建設について「県と国の係争が決着するまでは見守る」との姿勢を貫いた。

 前回の選挙から4年間、「黙認」とも言える態度を示し続け、選挙本番でも辺野古を争点化しない戦術を徹底した。

 渡具知陣営が強調した「子育て無償化3点セット」が多くの市民の共感を呼んだのは明らかだ。

 だが、選挙結果をもって「有権者は新基地建設を承認した」と言うことはできない。辺野古の是非が明確な争点になったわけではなく、すれ違いに終わったのだから。

 新基地建設という事の重大性にもかかわらず、政府の手続きは当初から丁寧さを欠き、ずさんだった。それが今も尾を引いている。

 稲嶺恵一知事は1999年11月、「15年使用期限」「軍民共用空港」の実現などを条件に辺野古沿岸域への移設を表明した。

 岸本建男名護市長(故人)も同12月、厳しい条件を付け、移設を受け入れた。

 これを受けて政府は移設方針を閣議決定したが、その後、移設案はころころ変わり、条件も実現しないまま閣議決定は反故(ほご)にされた。

 仲井真弘多知事が「県外移設」の選挙公約を翻し、辺野古の埋め立て申請を承認したのは2013年12月のことだ。

 知事が要望した「普天間5年以内運用停止」は実現せず、空手形に終わった。

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 翁長雄志前知事(故人)は、こうした政府の姿勢を「話くわっちー(はなしのごちそう)」と言った。

 「いい話をして、局面を乗り越えたら、その後は知らんぷり」という意味である。

 安全保障政策は国の仕事だが、政策決定に最も影響を受けるのは名護市の住民であり、県民である。

 1997年12月の名護市民投票は移設反対が半数を超え、2019年2月の県民投票でも反対の明確な民意が示された。

 新基地建設を巡って政府と県の対立が続いているが、聞く耳を持たない強引な埋め立てが、どれほど県民の感情を逆なでし、「差別行政」と受け止められてきたことか。

 軟弱地盤埋め立てによる辺野古新基地建設は、普天間飛行場の長期に及ぶ危険性放置につながる「最もありえない選択肢」(万国津梁会議提言)だ。

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 今年は復帰50年、サンフランシスコ講和条約発効70年の節目の年に当たる。「未完の復帰」を洗い直す絶好の機会である。

 講和条約によって沖縄は米国に統治され、「基地の中に沖縄がある」と形容されるほどの基地の島となった。

 日本の憲法が適用されず、自治権獲得や人権擁護の闘いが戦後ずっと続いた。

 1972年5月15日に施政権は返還されたものの、多くの基地が残り、日米地位協定が住民生活に重くのしかかる。

 沖縄戦と戦後の歴史から学ぶべきことは多い。