「松村組、清水組、大林組。米軍の工事を請け負い、もうかっていたのは本土業者ばかりだった」
終戦からほどない1950年初頭。沖縄で米軍基地建設工事が本格化した。建設作業を間近で見てきた饒辺永太郎さん(86)は、キャンプ瑞慶覧近くの自宅で、70年前の様子を述懐した。
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凄惨(せいさん)な沖縄戦で灰燼(かいじん)に帰した沖縄。日本政府は27年間の米軍統治を経て72年、日本に復帰した沖縄へ振興策を始めた。「本土との格差是正」「自立的経済発展」を目標に掲げ、50年間で13兆円の予算を投じた。
だが、79年度からの41年間で国が発注した県内公共工事のうち、受注額の半分近い46・3%、金額で1兆1854億9452万円は本土企業が受注していた。
国の予算が沖縄を素通りし、本土へ富が蓄積する「還流」の構図だ。その源流をたどると、終戦直後の米軍基地工事に行き着く。
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49年12月、米軍基地建設に向け、46人の技術者が沖縄に降り立った。鹿島建設、間組、大林組。いずれも本土の建設大手10社の社員で、翌年からの本格的な基地建設に向けた測量と設計のために、連合国軍総司令部(GHQ)が選抜したメンバーだった。...