沖縄の人々にドルを稼がせ、そのドルで本土から大量の物資を輸入し、本土の振興を図る米国の「ドルの二重使用」策。沖縄の最大の「稼ぎ先」は1950年に本格化した基地建設などの米軍発注工事だった。

 工事の加速化と日本経済の振興を狙い、米の工事発注は本土の大手業者に集中した。本土の受注率は、51年には9割近くに上った。

 「富」を本土が奪取する構図は、別の形で労働の現場でも顕在化した。

 「賃金の即時払い、賃金の3割上げ、食器・はしの支給-」

 52年6月、本土大手清水建設の子会社、日本道路の下で働く労働者が社側に16項目の要求書を突きつけ、ストライキに入った。戦後初のストライキだ。

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 米軍から浦添市牧港の発電所建設工事を清水建設が請け負い、日本道路が工事に当たった。250人の労働者の大半は奄美出身で、城間の宿舎に寝泊まりして作業した。

 日本道路は突然、60人を解雇すると通知。4月から2カ月間の賃金未払い、時給12円から10円への切り下げ、劣悪な宿舎環境-。労働者たちはストに踏み切り、立法院前でのハンガーストライキに発展した。

 当時小学生で、牧港に住んでいた又吉盛清沖縄大客員教授(80)は登下校時に見たストの様子を記憶している。訴えを聞いた市民からイモなどの差し入れが相次いでいたという。「なぜ同じ仕事をしているのに本土と沖縄が同じ待遇ではないのか。いじめではないか」。子どもながらにこう不信感を抱いたと振り返る。

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 当時は、労働法の審議のさなかで立法院にも動きが広がった。...