海邦銀行SCはもともと海邦クラブの名称だった。1987年の海邦国体に向けた強化チームとして85年に結成。具志堅朗監督(現・県サッカー協会名誉会長)が率いてから37年がたつ。初の九州リーグ昇格を決めた2000年に海邦銀行のスポンサー支援を受けて名称を変更。その後も一貫して県社会人の雄としてレベル向上を目指す意識の高いDNAが根付く。

2011年9月の天皇杯1回戦。0―1で惜敗したものの当時JFLのV・ファーレン長崎を終盤に追い詰める海邦銀行SCの赤嶺佑樹(右端)ら=沖縄市陸上競技場

 海銀SCが九州リーグに在籍し続けることで、県出身選手がより高いステージでプレーする受け皿となった。近年ではFC琉球の喜名哲裕監督が在籍。那覇西を出て名古屋やFC東京、ロアッソ熊本など6チームを渡り歩いた後、最後の11~12年シーズンを海銀SCでプレーして引退した。

 J2ツエーゲン金沢の高安孝幸(20)は興国高に進学する前、中学2~3年の時に海銀SCの練習に顔を出し、Jチームとの練習試合にも出て経験を積んだ。ほかにもJ経験者や、上のレベルを目指す選手が集う場となっている。

 高校指導者にもOBの裾野は広がる。県協会理事でユースダイレクターの松田邦貴氏(具志川監督)は那覇西が全国総体で準優勝した時の監督。那覇西の平安山良太監督や宜野湾の平田敦志監督らも育成に励む。

 県協会2種技術委員長の赤嶺佑樹氏(37)もその一人。那覇西の中心選手として全国選手権で活躍し、1歳上の兄である真吾氏(FC琉球を最後に昨季引退)に続いて大会優秀選手に選ばれた。赤嶺佑氏は浪人中の1年間と大卒後の計6年間、海銀SCでプレーした。

 志望する鹿屋体育大を目指して昼は予備校に通い、夜に海銀SCの練習で体を動かした。念願かなって合格し、卒後に帰郷すると日本フットボールリーグ(JFL)時代の琉球を経て再び海銀SCに戻った。主将を務めて11年の天皇杯1回戦で善戦、翌12年の全国社会人ではレノファ山口に3-0で勝って8強に進出するなど強い一時代を築いた。

 赤嶺佑氏は高校時代、海銀SCと練習試合を重ねたことが全国での善戦につながったと実感する。社会人になっても現役でプレーしたことは高校生の指導に役立った。「高いレベルでサッカーをしたい人が向上心を持って集まる。さまざまな職種の人がいて勉強になることは多かった」と振り返る。

 これらの時代を知る古参も健在だ。コーチの奥浜誉を筆頭にエース番号「10」を背負うFW高良清和(48)や、琉球のJFL昇格に貢献した新田呂(47)は今なおチームを表と裏の両面から支える。MF吉元雅人(43)は昇格からの20年を知るだけに海銀イズムを伝える役目を自認する。「県内トップを走り続けてきた歴史あるチームのプライドを持ってやってきた。途絶えさせずに次の世代に伝えたい」

(溝井洋輔)