北谷町字北谷は戦前、沖縄三大美田の一つ「北谷ターブックヮ」と称された米どころだった。豊かな田園集落は、72年前の沖縄戦で米軍に接収されてから今も返らぬまま。字北谷郷友会の津嘉山信行前会長(66)と出身者の上間善徳さん(96)を訪ね、しまくとぅばを交えながら字北谷の思い出を語ってもらった。(中部報道部・下地由実子)

戦前の字北谷について語る上間善徳さん(左)と津嘉山信行さん=6日、北谷町

戦前の字北谷について語る上間善徳さん(左)と津嘉山信行さん=6日、北谷町

 「北谷のいにいーるー時分や一番上等やたーん(北谷の稲を植える時期が一番素晴らしかったです)」。旧正月を終えた田植えの頃。善徳さんが、最も心に残っている字北谷の光景だ。

 字北谷は、現在の国道58号の北谷交差点東側の一帯だ。「ターブックヮ」は集落の南側に広がっていた。ただ、1920年代ごろから、現金収入を得やすい「うーじ(サトウキビ)」や、芋の畑が水田より多かったともいわれる。300坪の「はる(畑)」があったという善徳さんの家も、キビや芭蕉布の原料の木「うー」を栽培し生計を立てていた。

 それでも善徳さんが思い出す北谷の風景は「ターブックヮ」だ。稲の刈り取り迫る夏。にーぬふー(稲穂)は均一の高さに育ち、こうべを垂れる。田は黄金色に輝いた。善徳さんは何度も「上等、上等」と誇らしげに口にし、往事を振り返った。

 穂を取った後のいにぬわら(稲わら)も、集落の団結に一役買った。寅(とら)年に豊作を願い、隣の伝道、玉代勢と合同で行う「ウーンナ」(北谷三カ村大綱引き)。各家庭が稲わらを持ち合い、若者たちが打って綱に仕上げた。

 字北谷は拝所の集まる北谷グスクのお膝元で、周辺で最も古い集落だという。その言葉の特徴は、善徳さんによると「わったーくとぅば、いなぐむにーすんや(私たちの言葉は、他の地域の人たちから女性のような話し方と言われました)」。漁師町のような勢いのある言葉とは違い、「よんなぁよんなぁ、やふぁてんむぬいー(ゆっくりしたやわらかい丁寧な話し方)」なのだと強調した。

 その理由を津嘉山さんは次のように考える。人々は米のおかげで生活が安定、その心の余裕が、穏やかな話し方につながったのではないか。

 集落が米軍に接収されて72年がたつ。「わったーいららんくとぅ なーぬならん(基地の中に入れなくて どうしようもない)」。自宅から、当時の集落まで直線にしてわずか数100メートル。善徳さんは古里へ帰れないことには言葉少なだ。

 人々が離れ離れになり、北谷くとぅばの話者も減った。86年発行の「字誌北谷」には「純然たる北谷のイントネーションで話す北谷の子はもういない」との記述がある。31年後の現在、津嘉山さんは「純粋な北谷の言葉を話せる人は高齢で数えるほど」と話す。今後、聞き取りをして字北谷のしまくとぅばを残したいと考える。