[#復帰検定~オキナワココカラ]
 今から44年前、沖縄全域で行われた交通方法の変更「730(ナナサンマル)を冠した地名がなぜか石垣市にあると聞いて3月22日、私は石垣島に飛んだ。空港から出るとザーザー降りの雨だったが、初めての「石垣島出張」に胸が躍る。最初に向かったのは石垣市教育委員会市史編集課。出張前からやりとりしていた職員の仲程玲さん(40)を訪ねた。

730記念碑交差点の道路標識

「730の碑」をデザインした宮良永重さん(前列中央)と孫たち=2019年7月30日、石垣市美崎町

730記念碑をデザインした宮良永重さんの妻ツル子さん=3月22日、石垣市宮良

730記念碑交差点の道路標識 「730の碑」をデザインした宮良永重さん(前列中央)と孫たち=2019年7月30日、石垣市美崎町 730記念碑をデザインした宮良永重さんの妻ツル子さん=3月22日、石垣市宮良

◇公募で案採用

 「730」の地名の基となったと思われる「730記念碑」の由来を聞いた。同課によると、交通方法が一斉変更された歴史的事実を後世に伝えようと、八重山地区安全運転管理者協議会が1978年9月に建立。公募により当時、八重山署交通課に勤務していた宮良永重さん(77)のデザインが採用された。その後、碑にちなんで目の前にある交差点は通称「730交差点」と呼ばれるようになった。

 「島の人は『730』と言えばどこかすぐ分かる」。自身も石垣市出身の仲程さんは、記念碑への思いをこう語った。「私にとってもなじみ深い場所だし、今では多くの観光客が記念碑の前で写真を撮る『観光名所』にもなっています」

 それにしても、なぜ石垣市で記念碑を制作? こう聞くと仲程さんは「当時の石垣にはまだまだ車は少なくて、運転に慣れていない人も多かった。交通方法の変更後も事故が起きないことを祈願して建てられたのでは」と推測した。

 市の記録によると「730」対応のため、九州や四国などから応援の警察官が来島した。数カ月前から道路や標識、信号機の付け替えなどが進められ、沖縄本島同様に入念な準備が行われたという。

 そうして迎えた78年7月30日午前6時、市消防署のサイレンの音で自動車は右側通行から左側通行へと変更された。

 今回の取材を受けるに当たって、記念碑や交差点の資料を読み込んだという仲程さん。「730は遠い歴史だと思っていたが、調べてみると私が生まれるたった3年前の出来事だった。今の暮らしと地続きだと感じた」と感慨深げだった。

◇デザイン秘話

 青色で大きく書かれた「730」の文字と、車の走行が右側から左側に変わったことを示すマーク。「記念碑のデザインを手掛けた宮良永重さんに会いたい」。そう思った私は、市役所から市宮良にある永重さんの自宅へ向かった。取材に応じてくれたのは妻のツル子さん(73)。現在、体調を崩している永重さんに代わり当時のことについて話してくれた。

 「選ばれたよ」。永重さんはデザインが採用された時、そう言って絵を見せたという。普段から水彩画などを描き、絵画や書の個展を開いていたという永重さん。夫の報告に、ツル子さんは「分かりやすくていい絵だね、と返しました」と笑顔を見せた。

 「夫は警察官だったし、事故を起こさないでほしいとデザインしたのだろう」とツル子さん。八重山署交通課によると、記録がある2001年以降「730交差点」では一度も死亡事故が発生していないという。

 ツル子さんは「夫にとっても、そのことが誇り」とおもんぱかった。

◇石垣の「へそ」

 出張2日目。730記念碑の前では、この日もたくさんの観光客が写真を撮っていた。話を聞こうと記念碑のすぐ裏に店を構える「イチグスクモード730交差店」を訪れた。

 2021年7月30日にオープンした同店では、洋服や小物などを製作・販売する。店員の吉田麻優さん(29)は「730記念碑や交差点は、石垣のへそで中心部。これからも観光名所として栄えてほしい」と願った。(北部報道部・玉城日向子)