「よう、頑張ったな」。静かな葬儀場に弔問客の声が響いた。
 元衆議院議員の照屋寛徳さんが15日、胃がんのため西原町の病院で死去した。76歳だった。
 覚悟の入院。迫る余命は本人も承知の上だったが、息子で社民党県連代表の照屋大河県議は「まさかこんなに早いとは」と涙を拭った。
 1988年に県議初当選。2期目途中の95年に国政の道を選び参院選で当選。2001年に落選したものの、03年の衆院選から6期連続で当選を果たした。社民党の低迷が続く中、衆院では全国で唯一、小選挙区(沖縄2区)の議席を守り抜いた。
 昨年10月の衆院選は体調不良を理由に引退を宣言したが、後を継ぐ新垣邦男衆院議員の初当選に力を尽くした。それからわずか半年足らずの別れとなった。
 終戦の年の1945年7月、サイパンの米軍捕虜収容所で生まれた。米軍統治下ではうるま市(旧具志川市)で育ち、復帰の72年に弁護士登録した。コザ騒動の分離裁判や、第1次嘉手納爆音訴訟、反CTS闘争などで住民側を弁護した。
 復帰前の沖縄を「無憲法」だったとし、復帰後は日米安保体制の下、県民の命より基地の運用が優先される「反憲法」状態であると指摘。衆院時代は、豊富な法律の知識を基に、安保や日米地位協定の矛盾を厳しく突いた。
 平和憲法の下への復帰を切望した青年期を経て、揺るがぬ姿勢で護憲を貫き通した政治家である。
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 任期中に脳梗塞を患うも基地問題に対する国の不作為を追及する手は止めなかった。後遺症で口調はゆっくりになったが、時折ユーモアを交えながらも事の本質を言い当てた演説は、多くの人の心をつかんだ。
 「安倍にも負けず、雨にも負けず」。特に集団的自衛権行使容認や特定秘密保護法の成立、武器輸出三原則の見直しなど、「解釈変更」で憲法の常識を次々覆した第2次安倍内閣には、徹底抗戦を貫いた。
 13年、安倍首相がサンフランシスコ講和条約発効の4月28日を「主権回復の日」として式典を強行した時には、議員会館に届けられた式典案内状の出欠返信用はがきに「沖縄にとっては『屈辱の日』であり、総理が言う『我が国の完全な主権回復』は嘘(うそ)だ」と抗議の添え書きを付けて返信した。
 言葉と行動で県民の思いを代弁する政治家だった。
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 そんな寛徳さんの国会事務所に掛けられていたのが憲法前文の「平和のうちに生存する権利」の扁額(へんがく)だ。戦争捕虜の子という生い立ちから「ウチナーンチュとして戦争被害者にも、戦争加害者にもなりたくない」と話していた。政治の原点だったに違いない。
 復帰50年の節目を前に、戦後史を生き抜いた政治家を失った悲しみは大きい。
 早くから地位協定改定を訴え、引退時は「実現できなかったのが悔しい」と語った寛徳さん。後を託された沖縄の政治家たちはしっかりとバトンを受け取ってほしい。