[okinawa復帰50年]

1968年の海上集会に参加するため、鹿児島港から与論島へ向かう金城健一さん(右から2人目)=鹿児島県、同年4月26日(金城さん提供)

憲法手帳を手に「子や孫のため、本当に平和な沖縄をみんなで求めよう」と話す金城健一さん=24日、大宜味村の自宅

1968年の海上集会に参加するため、鹿児島港から与論島へ向かう金城健一さん(右から2人目)=鹿児島県、同年4月26日(金城さん提供) 憲法手帳を手に「子や孫のため、本当に平和な沖縄をみんなで求めよう」と話す金城健一さん=24日、大宜味村の自宅

 1952年のサンフランシスコ講和条約発効から、28日で70年を迎える。この日に合わせて、沖縄県国頭村と鹿児島県与論町が沖縄と日本の国境だった北緯27度線付近で、沖縄の本土復帰を求めた海上集会を10年ぶりに再現する。金城健一さん(77)=大宜味村=も、「平和な沖縄」を求めて沖縄側から参加する。(北部報道部・西倉悟朗)

 1968年4月28日、国頭と与論の間の海上に、日の丸をたなびかせた船が集結した。サンフランシスコ講和条約発効で沖縄が日本から切り離された「屈辱の日」に、沖縄の本土復帰を求めて開かれた6度目の海上集会。当時大学生で東京代表として与論側から乗船した金城さんは、沖縄側から参加した母の千代さん(故人)と目を合わせ、叫んだ。「沖縄を返せ」

 金城さんの父、金松(かねまつ)さん(故人)は生前、当時の大宜味村政刷新運動を率いて、不正を追及した。国の方針に従わない人々を取り締まる特別高等警察に治安維持法違反として何度も家宅捜索を受けた。その後の沖縄戦では防衛隊に召集され、戻ることはなかった。

 どこで亡くなったのかも分からず、家宅捜索で金松さんが写る写真は全て奪われた。遺品は師範学校時代の同級生から譲り受けた1枚の集合写真だけ。

 千代さんは何度も声を震わせて語った。「金松を奪った戦争が憎い。平和憲法の下で暮らしたい」

 本土復帰を果たした72年5月15日、金城さんは妻の弘子さん(76)と結婚式を挙げた。憲法の下で暮らす明るい未来を描き、喜びをかみしめた。「核抜き・本土並み」には程遠い形での復帰。だがそれは悲惨な戦争を経験した社会の流れと、憲法の下で次第に実現していくものだと信じた。

 当時は平良良松那覇市長の秘書として働いており、市長から結婚祝いにもらったポケットサイズの憲法手帳は、今でも肌身離さず持ち歩いている。

 「9条で平和主義を、14条で法の下の平等を定める素晴らしい憲法だ。だが実際はどうだ」。金城さんの語気が強まる。「米軍機は民間地上空を飛び交う。民意を無視した新基地建設は続き、父の骨が混じっているかもしれない土砂をその埋め立てに使おうとしている。これが私たちが求めた本土並みなのか、法の下の平等と言えるのか」

 金城さんは毎年4月28日には憲法手帳を握り締め、弘子さんと辺戸岬に通ってきた。与論島の島影を眺めると、本土復帰と恒久平和を願って社会全体が盛り上がった復帰運動当時の記憶がよみがえる。

 「屈辱の日から70年、本土復帰から50年の節目の今年、沖縄から再び平和を求めたい」と力を込める。子や孫の将来を思い、船上で「平和な沖縄を返せ」と訴えるつもりだ。