本土復帰から20年たった1992年。沖縄県内では音楽や出版、芸能などそれぞれに携わる若い世代が「自分たちの住む沖縄は独創的で面白いのかもしれない」と見つめ直し、「何かを変えたい」との思いで動きだした時期でもあった。そんな時代に公開された映画「パイナップル・ツアーズ」(監督・中江裕司、真喜屋力、當間早志)は、県内にとどまらず県外でも熱狂的に歓迎された。あれから30年、デジタルリマスター版が5月7日の桜坂劇場を皮切りに、東京、そして全国で順次公開される。中江、真喜屋両監督と代島治彦プロデューサーに話を聞いた。(フリーライター・たまきまさみ)

映画「パイナップル・ツアーズ」から「麗子おばさん」(監督・真喜屋力)の一場面

■「不発弾」巡る三つの物語

若き監督たちのデビュー作​

 映画は架空の島・具良間島(ぐらましま)を舞台に、アメリカ軍が落とした「不発弾」を巡って展開する三つの物語からなるオムニバス。製作時、中江裕司監督は30歳、真喜屋力、當間早志両監督は25歳と若き監督たちのデビュー作でもあった。

中江裕司監督。当時30歳

 真喜屋監督は「本土視点の沖縄の映画を撮るのではなく、自分たちが好きなものや好きな人たちをいっぱい出して描こうという思いがあったはず。それまでの日本映画とは違う沖縄の描き方をしたかった」と振り返る。「当時、僕たちと同世代の人たちが自分たちの土地・沖縄が独創的で面白いと何となく感じ始めていて、何かやってやろう、変えてやろうという雰囲気があった。そこに乗っかって作った映画。だから30年前の沖縄の雰囲気がこもるドキュメンタリーみたいな部分もあると思う」と中江監督も応じた。

真喜屋力監督。当時25歳

 伊是名島で2カ月かけて撮影を行い、島の人々も参加している。台風で映画のシンボルであるパイナップルの大きなハリボテが海に流され、作り直したこともあった。県内の出演者は出身地もさまざまだったが、それぞれの地域の言葉でしゃべってもらい、あるがままの自然な姿を撮った。

當間早志監督。当時25歳

 代島プロデューサーにとっても初の映画製作だった。「若い人たちが頑張ろうとしている沖縄ってすごいなと感じた。沖縄面白いぞみたいな空気が大和から見ると光っていて、彼らと何か一緒にやろうという流れになった」。県外の感覚ではすぐに理解できない表現もあったが、そこは監督3人の自由にしてほしいとの思いで任せ、全体の仕掛けを面白くしようと、プロデュースから配給宣伝も全て自ら手がけた。

【映画パイナップル・ツアーズとは】

 第2次世界大戦中にアメリカ軍が落とした不発弾が眠る沖縄の架空の島を舞台に繰り広げられる、ドタバタ活劇。「麗子おばさん」(監督・真喜屋力)、「春子とヒデヨシ」(監督・中江裕司)、「爆弾小僧」(監督・當間早志)で構成される。総合プロデューサーは代島治彦。劇場公開された1992年にユーロスペース(東京)で10週間のロングランを達成。全国各地でも公開された。同年度日本映画監督協会新人賞。第42回ベルリン国際映画祭ヤングフォーラム部門正式出品作品。2022年デジタルリマスター版公開。

■30年ぶりリマスター上映 

5月7日の桜坂から全国公開

デジタルリマスター版「パイナップル・ツアーズ」をPRする(左から)総合プロデューサーの代島治彦さん、監督の真喜屋力さんと中江裕司さん=8日、那覇市・桜坂劇場

 30年ぶりの上映に代島プロデューサーは「製作時には、沖縄の人が見てスカッとする映画、楽しめる娯楽映画ができたら面白いよねというのはすごくあった。それができたら大和の人も楽しめて、これまでにない映画になるんじゃないかという感じがあった気がする。30年前にはまだ生まれていなかった世代が見ても、沖縄映画としてスカッとしてくれたらうれしい」。この映画を少し先の未来まで運びたいという思いも込める。

 沖縄は30年間でさまざまなことを積み重ねてきた。その一方で、ウチナーグチ、地域で行われる婚礼の儀やカジマヤーなどの催し、観光開発に対する問いなど、この映画にちりばめられた光景に、独創的な沖縄らしさがなくなりつつあることに気付かされる。

 当時、中江・真喜屋両監督も感じていた「本土から描かれる『本土化された沖縄』に対する閉塞(へいそく)感や、県内で感じていた違和感のようなもの」は、本土化されているという意識すら薄まっている今の沖縄への問いかけにも感じる。「何かが変えられるかもしれない」というこの映画の中に渦巻くエネルギーは、見る者の心を晴らし、私たちが取り戻すべきものを示唆することだろう。時を超えようとする映画は、いまの時代を生きる人々の心にどのように響くのだろうか。

■台風に遭遇 必死に撮影

當間早志監督コメント

當間早志監督

 ハイビジョンが普及し始めた十数年前からデジタルリマスター版を作らないのかなと思っていました。復帰50年というキッカケがあったのでプロデューサーも踏ん切りがついたんだと思います。僕のパートだけ台風が3度も襲来したので、スケジュールも内容もかなり変えないといけなくなり、期限切れを迎えたスタッフらも徐々に現場から離れていったので、とにかく鑑賞に堪えられる形で上映に間に合わせる、という思いで必死でした。公開当時は客観視できなかったのですが、年月がたってみると、特に自分のパートは演出や編集の粗さや稚拙さが目につきます。だけど、映画産業がないに等しい当時の沖縄で、劇映画を作ったことは褒めたいと思っています。