[沖縄復帰と日銀那覇支店](上) 元日銀那覇支店長・水口毅

5月2日朝、那覇軍港から日銀那覇支店に向かう現金輸送車の列(沖縄タイムス撮影)

元日銀那覇支店長 水口毅氏

5月2日朝、那覇軍港から日銀那覇支店に向かう現金輸送車の列(沖縄タイムス撮影) 元日銀那覇支店長 水口毅氏

 1972年5月15日(月)から20日(土)までの6日間、沖縄では米ドルから日本円への「通貨交換」が実施された。通貨交換は、沖縄の銀行と日本銀行員の協力があって達成できた大作業だった。元日銀那覇支店長で現アクセンチュア顧問の水口毅氏が、通貨交換を巡るエピソードを3回に分けて紹介する。

 1945年8月15日、日本は全面降伏した。その後、52年にアメリカを中心とする連合国軍の占領は終了したが、沖縄は返還されなかった。

 72年5月15日の復帰の日まで、沖縄は米軍の統治下に置かれた。日本に行き来するには、琉球政府発行のパスポートが必要だった。58年に夏の甲子園に初の沖縄代表として出場した首里高校の野球部員は、敗退後、甲子園のグラウンドの土を記念として沖縄に持ち帰ろうとしたが、那覇近くの海で捨てさせられた。

 私と同年代の沖縄生まれの方々は、日本ではない沖縄で少年少女期を過ごした。当時、沖縄でボーイスカウトだった方は「米国連盟」が「琉球」用に特別に翻訳した「ハンドブック」の日本語全訳版を使っていた。

 69年11月、佐藤・ニクソン両首脳の共同声明で沖縄の日本復帰が正式に表明された。歓迎すべき決定ではあったが、不安や乗り越えるべき変化は大きかった。その大きな変化の一つが、日々使うお金が米ドルから日本円に変わることだった。

●1年前に準備室

 米ドルから日本円への通貨交換を含め、沖縄でのお金の関係は、日本銀行が実務を担うことになる。このため、日銀は、復帰予定の72年の1年前に「開設準備室」を東京の本店と那覇の2カ所に置き、那覇支店の新築を含む突貫作業を始めている。

 開設準備室のメンバーは、那覇の飲食店で夕食をいただくことが多かった。那覇に多額の現金を持ち込む予定だったので、彼らは多くを語らなかった。お店の女主人に「内地から来たの? 銀行? だめよ、もう沖縄には銀行があるから、沖縄に来てももうからんさぁ」と心配していただいたとの逸話がある。

●見積もり1億ドル

 当時の沖縄のドルの流通量をいくらと推定するか、それが難題だった。当時通貨統計は存在しなかったため、正確な数字はなく、さまざまな想定を重ねて約1億ドルと見積もった。これに検討当時の交換レート1ドル360円を乗じて360億円、さらに各交換所でいくら交換が発生するかが分からない中で、余裕として5割増しにした540億円を通貨交換に必要な額とした。

 現金の輸送手段の選定にも熟慮が必要だった。安全性・積載能力・費用等を考慮して、大筋次の通りとされた。

 「内地」から那覇港までは自衛艦2隻を使う(4月26日深夜、東京・大井埠頭(ふとう)から出発)。

 那覇港は商港部分ではなく米軍港を使う(5月2日午前7時前に着岸)。

 港から新築ほやほやの日銀那覇支店まではトラック5台が列をつくってピストン輸送する。経路は、現在観光客の多くが通る国道58号線(復帰前は「1号線」)を主な経路とする約1キロ。警察の協力を得て、経路では全て青信号に変えてノンストップで走った。

【沖縄復帰と日銀那覇支店】

(上)沖縄復帰でドルから円へ通貨交換 540億円準備 軍港から日銀まで1キロ輸送 すべて青信号に

(中)「捨てるな」と貼られた箱 中に入っていたのは… 沖縄で通貨交換、地銀職員と連携プレー

(下)「沖縄県民斯ク戦ヘリ」との不思議な縁 「沖縄を向いて仕事せよ」語り継がれる初代の思い