〔沖縄復帰と日銀那覇支店〕元日銀那覇支店長・水口毅(下)
「本店を見るな、100%沖縄を向いて仕事をせよ」
これは、那覇支店開設準備室長として東京と那覇で働き、初代の支店長になった新木文雄氏が、部下に何度も語った言葉として語り継がれている。
新木氏は、三重野康元総裁(故人、私が1990年代に秘書として仕えた総裁)と同窓・同期入行で、新人としての配属部署(国庫局)も同じ。親友だった。
新木氏も三重野氏も戦争に翻弄(ほんろう)された世代。新木氏は、太平洋戦争の末期、20歳を過ぎたばかりの頃、鹿児島県鹿屋の特攻基地で電波探知の担当だった。
ある時、沖縄からの一本の打電を傍受した。それは、大田實司令官が自決を遂げる前の電信で次の一節で結ばれていた。
「…沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
新木氏は、この体験を持ちつつ初代那覇支店長を拝命したことに、運命的なものを感じていたとされる。「本店を見るな、100%沖縄を向いて仕事をせよ」という指示も、そうした思いが背景にあったのだろう。そして、通貨交換作業の緻密な企画にも、日銀那覇支店の看板の文字選びにも、そうした思いが現れているように思える。
■看板の字体継ぐ
日銀那覇支店は、2008年の年初に「新都心おもろまち」に移転した。
その地域は、米軍が「シュガーローフの戦い」と呼んだ沖縄戦の激戦地があった一帯である。長く米軍が押さえていたが、1987年に沖縄に返され、県によって新都心として開発された。
那覇によく行く人には、沖縄県立博物館・美術館、ショッピングモールのサンエー那覇メインプレイス、免税店が集まる「Tギャラリア沖縄」がある場所といったほうが分かりやすいかもしれない。
新しい那覇支店(といっても14年経過したが)の看板も、初代支店の看板の字体を引き継いだ。もちろん、新木初代支店長の「沖縄のために仕事をする気持ち」も受け継がれている。建物は、沖縄の伝統的な民家の「赤瓦」をイメージさせる赤茶色の屋根を載せている。その玄関口の左右には、一対の大きなシーサーが鎮座している。
■旧支店金庫残る
日銀の初代那覇支店の跡地は、入札で沖縄セルラー電話が取得し、同社は本社ビルを建設した。その際、同社は初代日銀那覇支店の建物は取り壊して撤去したが、金庫は残し、一般の方々が予約なしで見学できるようにした。
復帰の2週間前、1972年5月2日の朝、540億円の日本円の現金が届いた日銀旧那覇支店の金庫を、今もなお見ることができる。
復帰50周年を迎えるこの春、NHKの朝ドラで、「ちむどんどん」が始まった。その番組で沖縄の風景、人々、料理の映像を見るたびに、元気をもらう。 コロナ禍が落ち着いて那覇に行きやすくなったら、時間を見つけて、日銀旧支店の金庫と、新支店の看板を訪ねていただけるとうれしい。そこには半世紀前の「あんやたん」が隠れている。(元日銀那覇支店長・現アクセンチュア顧問)
【沖縄復帰と日銀那覇支店】
(上)沖縄復帰でドルから円へ通貨交換 540億円準備 軍港から日銀まで1キロ輸送 すべて青信号に