[okinawa復帰50年]

キャンプ・マクトリアス近くでタンポポに手をやる狩俣繁久さん=10日、うるま市西原

タンポポ

キャンプ・マクトリアス近くでタンポポに手をやる狩俣繁久さん=10日、うるま市西原 タンポポ

 暗い時代、フェンスの内も外も構わず咲くタンポポは「ひかりいろ」に輝いて見えた。基地の街の中学3年生は、詩を書いた。日本の大人が詩やメロディーを補い、「タンポポ」という曲が1970年ごろ生まれた。かつての中学3年生、今は琉球大学名誉教授の狩俣繁久さん(67)と、タンポポを探しに行った。(編集委員・阿部岳

 具志川市(現うるま市)安慶名の自宅からキャンプ・マクトリアスまでは西にわずか250メートルほど。勉強部屋から、サトウキビ畑の向こうに建物が見えた。北はキャンプ・コートニー、東は天願通信所(後に返還)に囲まれて、狩俣さんは育った。

 嘉手納基地から離陸するB52爆撃機の真下に居合わせ、衝撃に震え上がった。前原高校に入学するとすぐ、下校途中だった同学年の女子生徒が米兵に襲われ、抵抗して大けがを負わされた。米軍は怒りというより、恐れの対象だった。

 基地の近くで、よくタンポポを見かけた。踏まれても枯れない。綿毛を風に乗せ、フェンスという異物を軽々と越えていく花に、希望を託した。

 「強く生きぬくタンポポを/金網のない 平和な沖縄に/咲かせてやりたい」

 あげな中学校3年の授業で書いた詩「ふまれてもふまれても」が雑誌や書籍に取り上げられ、作詞家と作曲家の目に留まった。知らないうちに「タンポポ」という曲になり、レコードになり、気恥ずかしい思いがしたことを狩俣さんは覚えている。

 曲は「うたごえ」運動で今に継承され、辺野古新基地建設に対する抗議の現場でも歌われる。楽譜には「原詞」として狩俣さんの名前が残るが、「気持ちはあっても実際に運動をしてきたわけではないから」と、自らは周囲に黙っていた。

 琉球諸語の研究に進み、言葉を通じて沖縄の文化や暮らしを見つめてきた。名誉教授になった今も、ほぼ休みなく研究に打ち込む毎日。「タンポポは地表で枯れたように見えてもまっすぐ深い根を下ろしていて、また花を咲かせる。生き方として、共感するところがある」という。

 少年時代によく遊んだキャンプ・マクトリアス沿いを歩く。道向かいの草地に、変わらずタンポポが咲いている。金網も、変わらない。沖縄の少年が日本復帰前夜、詩に託した願いは、50年後の今もかなわない。