深くひさしを出した雨端(あまはじ)と、ひんぷん。建築家の故金城信吉さんが設計した那覇市民会館が歴史の舞台として日本中から注目を集めたのは、1972年5月15日のことだ。

那覇市民会館で開かれた新沖縄県発足式典=1972年5月15日

 この日午前10時から、東京と沖縄をテレビ中継で結び、政府主催の「沖縄復帰記念式典」が開かれた。

 引き続き午後2時から「新沖縄県発足式典」。屋良朝苗知事は、万感の思いを込めて、琉球政府の解散と沖縄県の発足を高らかに宣言した。

 あれから、きょうでちょうど50年になる。

 物価高騰、土地買い占め、乱開発、基地労働者の大量解雇…。復帰後の沖縄社会は混乱を極めた。

 復帰不安が現実のものになったのである。

 制度の「一体化」、労働組合や企業などの「系列化」が急速に進み、公共事業によって街の風景もすっかり変わった。

 沖縄社会が急速に変わったのは、70年代後半から90年代初めの時期だ。

 「しまー、まーやが」

 「しまー、みーらんなとーしが」

 「沖縄はどこだ」「沖縄が見えなくなっているぞ」。金城さんが残した言葉が、当時の社会状況をよく伝えている。

 社会全体がヤマト化していく中で、ヤマト化とは反対に、土着文化の根を掘り起こす動きも顕在化した。

 作家の故大城立裕さんは指摘する。「万事、むしろ本土との異質性を強調する風潮に変わった」

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 沖縄の戦後史は復帰運動を抜きにしては語れない。

 戦後最も早く復帰運動を始めた仲吉良光・旧首里市長は「子が親の家に帰りたがる如(ごと)く、人間自然の感情」だと強調していた。

 「祖国復帰」という言葉とともに、「異民族支配」という言葉が使われるようになる。

 復帰運動は次第にその内実を変え、自治権拡大、人権擁護、ベトナム反戦などの性格を帯びるようになる。

 復帰が現実の政治日程に上り始めると、「反復帰論」や「復帰尚早論」も台頭し、復帰を巡って沖縄全体が騒然とした空気に包まれる。

 だが、日米両政府にとって沖縄返還は「基地維持」と「事実上の自由使用」を前提にしたものだった。

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 「平和で豊かな沖縄県づくり」が実現しないまま、復帰50年を迎え、沖縄は今、第2の大きな転換点に差しかかっている。

 メディア各社の意識調査結果が示すように、基地負担を巡る本土との溝は埋まらないままだ。

 沖縄タイムス、朝日新聞などの調査では、米軍基地が「今のままでよい」と考えるのは沖縄で19%だったのに対し、全国では41%と、沖縄より大幅に多かった。

 県内の世代間の意識の差も目立つようになった。基地返還を重視する高年層に対し、若い層は基地よりも経済を重視する傾向が明らかになった。本土と沖縄の溝だけでなく、沖縄内部の意識の溝も顕在化してきたのである。

 復帰後世代が沖縄の人口の半数を超えたこと、コロナ禍で経済が落ち込んだこと、さらにロシア軍のウクライナ侵攻や中国の海洋進出などが影響したと思われる。

 ここから二つの課題が浮かび上がる。基地を巡る構造的差別は戦後史を体験した高年層に憤りや屈辱感をもたらしており、「尊厳」の回復が必要だ。

 現役世代や子育て世代にとっては将来の「希望」が持てるかどうかが何より重要だ。

 ポスト復帰50年の政策課題は、「尊厳」と「希望」が達成できるような具体的施策を実現することである。