1970年 復帰前に那覇市の城北小学校で撮影された給食風景。子どもたちに笑みがこぼれる
2022年 新型コロナウイルス禍で前を向いて黙々と食べる給食だが、子どもたちはうれしそう=4月27日、那覇市立真和志小学校(名護大輝撮影、画像の一部を加工しています)

[okinawa復帰50年]

戦後の混乱期に始まったミルク給食=1956年3月、玉城村の百名小学校

 戦後の貧しい時代から1972年の日本復帰を経て「飽食の時代」といわれる今。子どもたちの成長と健康を支える学校給食も時代とともに変化を遂げてきた。(学芸部・嘉数よしの)

 4月27日。那覇市立真和志小学校では、麦ご飯にもずくのあんがかかったもずく丼が出た。郷土料理や県産食材も積極的に取り入れられている給食は、沖縄文化を継承する面もある。入学したての1年生、成島洸(こう)さん(7)は「学校のご飯はおいしくてお代わりもする」とにっこり。北村栞梛(かんな)さん(6)は「嫌いな豆も食べられた」と喜んでいた。

県内で初めて完全給食が始まった豊見城村の上田小学校の様子=1962年9月

 戦後の混乱期、給食はアメリカの救援団体などから届いた脱脂粉乳のミルクだけだった。60年にパンが加わり、62年以降はおかずも付いた「完全給食」へと移行。復帰を境に納豆など日本的な食材も登場するようになり、76年には主食に米飯が加わるなど、多様化を続けている。

■ミルクぬるく子どもには不評

断水が長引き、混乱した市民生活。給食も影響を受け、給水車から水を得て調理した=1969年6月、那覇市・識名小学校

 69年に学校栄養士になった安谷屋邦子さん(74)=与那原町=は、本土の子よりも体が小さいといわれていた沖縄の子どもたちのために苦心した思い出を振り返る。「カルシウムを意識したメニューを作ったけれど、毎日出されるミルクが子どもたちには不評だった。脱脂粉乳をお湯で溶いて作っても、給食の時間にはぬるくなる。残量が多くて困った」

■断水や食中毒発生で休止も

 復帰前後によく出たおかずは、ひじき炒めや野菜チャンプルー、煮付け。栄養士は子どもたちに食べてもらえるよう食器を変えたり、複数学級で食事を楽しんだりするなど工夫しながら、給食を充実させた。

 時に断水や食中毒が発生し、給食が休止になる事態も起こった。食材の下ごしらえも手作業で、復帰当時は「大変だった」と安谷屋さんは思い起こすが「栄養士も調理員も、子どもたちのためにと使命感に燃えていた。『おいしい』と食べてくれる姿がうれしかった」と目を細める。

パンとご飯作り56年休まず継続

復帰前から今年3月まで56年間、給食のパンやご飯を作った東江昇さん(右)京子さん夫妻=3月、伊江村(提供)

 伊江村の東江昇さん(81)、京子(けいこ)さん(80)夫妻は、復帰前の66年から今年3月まで56年間、「島の子どもたちのために」と給食用のパンとご飯を作り続けた。

 夫妻が京子さんの父親から受け継いだ伊江製パンは島唯一のパン屋。出来たてにこだわって手作りし、その味は本島から赴任する教員たちが「伊江島のパンは湯気が出ていておいしい」とうなるほどだった。昇さんは「残さず食べてもらえることがこれ以上ない喜びだった」とほほ笑む。

 多い時には毎日千食分のパンやご飯を用意し、台風で停電になった際もガスコンロでご飯を炊き、小中学校に届けてきた。安心安全を徹底し、調理中は常に緊張感を持っていた。身内に不幸があっても、体がきつくても休んだことはない。「子どもたちとの約束だから」と50年以上、調理場に立ち続けた。

 仕事の傍らに教えてきた柔道でも食の大切さを伝えてきた昇さん。「勉強も運動も、しっかりとした食事があってできること。子どもたちにはバランス良くたくさん食べてほしい」と呼びかけた。