沖縄が日本復帰した1972年に生産が始まった「琉球みやらびこけし」。沖縄県内でのこけし製造は珍しく、身体障がい者の経済的自立を支援しようと県外出身者が南風原の授産施設に導入した。事業を引き継ぐ八重瀬町の太希おきなわは「50年も続く人気商品はそうない。施設の歴史をつないだ、たすきのような存在」と胸を張る。(南部報道部・又吉健次)

目がぱっちりと描かれるようになった琉球みやらびこけし

大司盛一さん製作の「琉球みやらびこけし」の通産大臣賞受賞を伝える1974年2月15日付沖縄タイムス

琉球みやらびこけしを生産する「太希おきなわ」の利用者ら=11日、八重瀬町仲座

目がぱっちりと描かれるようになった琉球みやらびこけし 大司盛一さん製作の「琉球みやらびこけし」の通産大臣賞受賞を伝える1974年2月15日付沖縄タイムス 琉球みやらびこけしを生産する「太希おきなわ」の利用者ら=11日、八重瀬町仲座

 琉球みやらびこけしは、県内初の重度障がい者授産施設として72年に開所した「おきなわ太陽の町」で生産が始まった。関係者によると、米軍統治下にあった沖縄や小笠原住民を支援する南方同胞援護会(南援)の職員で東京から来沖した大(たい)司(し)盛一さんが導入した。

 南援は戦争で負傷した兵士らでつくる傷痍(しょうい)軍人会と交流があり、同会関係者が太陽の町にいたことから大司さんが「沖縄にはない、こけしを作ってはどうか」と提案。こけし職人ではないが絵心があり、人形の削り方や顔の描き方を指導して「沖縄のために役立ちたい」と話していたという。

 大司さんは自らが営む琉球民芸物産(那覇市、89年解散)で商品を販売。74年2月15日付の本紙には当時60歳の大司さんが登場し、第14回全国推奨観光土産品審査会で通産大臣賞に輝いたと紹介している。

 最大のブームは海洋博覧会があった75年で、利用者だけでなく職員も一緒になって夜も眠らずに手作りした。当初は細かった目も「沖縄の人の目はこんなんじゃない」という声があり、93年までにはぱっちりとした瞳に変わった。

 米兵とその家族もお得意さんで助言をもらって作った商品もある。売れ行きの芳しくない時期もあったが、県出身バンド、MONGOL800の人気曲を基にした2019年公開の映画「小さな恋のうた」に映ったこともあり、再び人気に火が付いたという。

 太陽の町は八重瀬町に移転し、別組織との統合で名前も「太希おきなわ」に変わった。こけしは現在、男女5人が年間800体超を製造している。大司さんから技術指導を受けた元職員の川満輝一さん(75)は「障がい者が作ることに意義がある。大司さんの沖縄への思いがこけしに変わったんだと思う」と感謝。松本匡就労支援課長(58)は「お金を稼ぐだけの商品ではない存在。なくしてはいけないものだと考えている」と話した。