[沖縄の生活史~語り、聞く復帰50年]第2部(3) 語り手 赤嶺千穂子さん(73)(上) 聞き手 知念渉さん(36)

 -もともと生まれは?

 宮古です。生まれは宮古、佐良浜。

 -何年生まれですか。

 (昭和)24年生まれ。

 -戦後間もないよね。

 そう。うちの家もさー、庭にさ、こんなおっきい爆弾が落ちていた。

 -(夫・芳弘さん)あの頃は(自分が)小さいから、あんまり大きくなくても大きく見えるはずよ。

 いや、本当に大きかったよ。(両手を大きく広げながら)バーって大きいのがあったもん。不発弾が。

 -そんなのが珍しくなかったってこと?

 いやー、何か、(子どもには)意味分からんからさ。何だろうって見るだけさあね。

■島出て興南高へ

 -じゃあ、そこで生まれて?

 中学までは向こう。高校から那覇。興南高校。ちょっとだけ首里高校にいたんだけど、興南高校にお友達がたくさんいて、制服がかっこよかったから、(首里高校を)辞めてから興南高校に行きました。

 -一個下になることに抵抗はなかったんですか?

 全然。大丈夫だった。とにかくお友達がたくさんいて、ブレザーもかっこよくて。それであっち(興南高校)行きたいなーって思って。親に「あそこ私立だから金が掛かるから、絶対に駄目」って言われて。「よしっ、私が卒業したらたくさん仕事して、お金返すよ」って言って。でも返さないで、親も亡くなっちゃって。

 -お金もそうだけど、首里高ってそれこそ一中だから、今よりも当時はもっとあれじゃない?

 でも、もう自分でそう決めてしまったから。

 -なるほど。それで高校卒業したら何したんですか?

 高校卒業して、大学に行きましたよ。国際(沖縄国際大学)。そのあとは親に言われて、女の人は結婚しても手に職を持った方がいいんだよ、って。で、美容学校に行きました。美容学校に行って、それを終わって国家試験受けて、免許を取って、美容室を経営していましたよ。

 -お父さん、お母さんは何をされていた人ですか。

 お父さんは船。外国航路の船に乗ってましたね。漁師か何か分からんけど。とにかく外国へ行ってた。おかーは、畑やったり、キビ作ったりもしてた。宮古で。食べるものの野菜を作ったり。おじーがいたから、おじーさんの世話やったり。そんな感じ。

■雨水ためて利用

 -小さい頃の宮古はどんな感じでした。整備状況というか、水道とか。

 水道はなかったですね。井戸の水だった。だけど、雨水、雨が降るでしょ? 雨水をこう、といがありますよね、屋根に落ちたときにといを付けて、大きなタンクがあったんですよ。

 -(夫)昔の浄化槽。それで、下に蛇口がついてて飲んだら甘いんだよ。

 そう。その後、道の三差路とか、こういうところに水道ができて、あとは直接お家にひけるようになったんですよ。

 -直接、お家にひけるようになったのはいつ頃ですか。

 分からん。中学校の頃はあったね。小学校の頃もあったかもしれない。

 -(夫)漁業が専門だから、佐良浜は。宮古で一番だから(整備されるのも早い)。

 うちのお家だけ瓦の大きなおうちだったの。台風になると近所の人とか、親戚関係が全部集まってきて。台風が一番楽しかった。みんな、おばさんとか、お母さんとか、お姉さんたちはみんなの食事を作ってから、おにぎりとか。それを食べさせたり。これが楽しくて。

 -火はどうだったの?

 火はまきでした。あとからね、石油を入れてからキュッとやるのなんかがあったんだよね。

 -(夫)トイレもぽとんだよ。豚がよく食べよったよ。

 昔はこうしてたけどだんだん水洗トイレになって。

 -電気はどうでした?

 小さいときは電気はなかった。でも、中学の頃には電気あったね。テレビは白黒からだんだん(カラーに)。...