「この着物を見て、沖縄戦のことを知ってほしい」と話す比嘉秀子さん=5月30日、読谷村座喜味のユンタンザミュージアム

[戦後77年]

 沖縄戦時、疎開してきた家族から米3升と引き換えに手渡された着物の持ち主が見つかった。「いつか本人に返したい」と生前話していた母の思いを継いで保管していたのは、国頭村の大田吉子さん(88)。元の所有者である比嘉秀子さん(93)=読谷村=と1日に面会し、「会えてうれしい」「こんなに大切にしてくれていたなんて」と涙ながらに抱き合った。(社会部・當銘悠)

 着物は鮮やかな紫色で、牡丹(ぼたん)や菊、梅が描かれている。読谷村高志保出身の比嘉さんの家は養蚕をしており、手先が器用だった姉が十三祝いのために織ってくれた後、県外で染め付けされた。

 昨年、大田さんが着物の持ち主を捜しているという報道や広報誌が出て以降、比嘉さんは「私のものでは」と気になっていたという。読谷村のユンタンザミュージアムに寄贈された実物を一目見て、学芸会で着て踊った記憶がよみがえった。関係者の仲介で、対面が実現した。

■「こんなに大切にしてくれていたなんて」

 米軍の沖縄本島上陸を前にした1945年3月ごろ、比嘉さん一家は読谷村から国頭村奥間まで歩いて避難した。奥間の老夫婦の自宅に、両親やきょうだいと共に約10人で身を寄せた。井戸の水を分けてくれたのは、隣家の大田さんの家族。同い年の子がいて、一緒に遊ぶこともあった。

対面を果たし、感極まる比嘉秀子さん(左)と大田吉子さん=1日、国頭村・奥間公民館

 着物を米と交換したことは、後に家族から聞かされた。戦後77年を経て、めぐりあえた奇跡。「大切に保管してくれてありがたい。戦世の時はお世話になりました」と涙ぐんだ。

 大田さんも着物を見るたびに戦時中を思い出し、時に涙を流した。「この着物と米3升を交換してほしい」と嘆願された母は、「着物はいりません」と断ったものの、比嘉さんの家族も譲らなかったという。

 「母はずっと『あの家族はどこかで元気にしていると思う。返したい』と言っていた。願いがかなってよかった」と喜んだ。

■着物が結んだ絆 「戦世で助けてもらった」

 戦世を見つめてきた着物がつないだ縁。手渡した側の比嘉秀子さん(93)=読谷村=と、それを大切に保管してきた大田吉子さん(88)=国頭村=は、戦後77年を経て対面した。「もう二度と戦はやってはいけないよ」と平和な世界に思いをはせる。

 戦時中は山中に避難したこと。戦後は子や孫に恵まれたこと。互いの人生を語り合った後、2人は大田さんの亡き母らの仏壇へ向かった。比嘉さんが「今日は戦世で助けてもらったお礼に来ました」と手を合わせると、大田さんも「母はきっと喜んでいると思う」と目を細めた。

大田吉子さん(奥)の亡き母の仏壇に向かい、「戦世ではお世話になりました」と手を合わせる比嘉秀子さん(手前)=1日、国頭村奥間

 読谷から国頭に疎開していた比嘉さん一家は、1945年6月ごろから山中の避難小屋で暮らした。日本の戦闘機が、米軍艦に体当たりしている。思わず海に向かって手を合わせた。一緒にいた父はマラリアで命を落とし、兄は兵隊として戦死した。

 10歳だった大田さんも山奥に逃げた。親たちは米兵に見つからないよう夜中に山を下り、芋を取りに行った。日本の敗戦を知って里へ戻る時には、亡くなっている人のそばを泣きながら通った。

 着物は、10~26日まで読谷村のユンタンザミュージアムで展示される。比嘉さんは「こんな時代があったことを知ってほしい」と話し、長男の優さん(71)も「戦争を伝える物として多くの人に見てもらえたら」と願う。

 大田さんの孫の浩之さん(32)は、動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」のアカウント「南の島のおばーと孫」で、着物についての動画を投稿していた。「持ち主が見つかり、おばあちゃんの思いがかなって良かった。この着物を通して、おばあちゃんの優しさは、ひいおばあちゃんから譲り受けたものなんだなあと感じられた」

 世界を見ると、ロシアのウクライナ侵攻で多くの人々が犠牲になっている。大田さんは「二度と戦争が起こらないように、毎朝祈っているんだよ」。比嘉さんは「戦争は負けても勝っても命を落とす人がいる。戦は絶対にやってはいけない」と力を込めた。