ロックバンド「紫」のドラマーとして活躍する宮永英一さん(70)は沖縄の日本復帰前、音楽を通して知り合った米国人男性が実は密輸されたヘロインのディーラーで、当時一緒に活動していたバンドメンバーも共犯だったという夢にも思わなかったことに遭遇した。米軍の捜査機関に関係者が逮捕される中、同事件に絡んだ沖縄関係者の裁判で検察側の証人として出廷したこともある。「薬物が当たり前にあった時代。恐ろしい」と振り返り、当時の出来事を証言した。(中部報道部・伊集竜太郎)

密輸されたヘロインの取引場所だった現場付近で、米軍の捜査機関が張り込んでいた当時の状況を語る宮永英一さん=沖縄市内

 宮永さんは1968年、バンドが演奏するライブハウスによく来ていたコザ市(現沖縄市)内に住む米国人男性と仲良くなった。

 「スピーディ」と呼ばれ、自身を軍人ではない「シビリアン」と言っていた。遊びに来ないかと誘われてバンドメンバーと自宅に行くと高価なステレオやレコードもたくさんあった。ライブの後、レコードを聴くために足しげく通った。

 ある日、いつものようにスピーディの家で音楽を聴いていると、後から来たバンドメンバーが「外で誰かが隠れている」と言った。泥棒だと思い、敷地の外周を確認すると、拳銃を持った軍の捜査機関の人が立っていた。

 宮永さんは訳が分からず家の中へ「警察だ!」と叫んだ。みんな一斉に逃げた。バンドメンバーの一人が表に車を回し、家の中から誰かが車に袋を投げ込んだ。逃走したメンバーとスピーディは逮捕された。

 出所したメンバーから、事件を巡る一部始終を聞くと、スピーディの自宅は密輸されたヘロインの取引場所だった。

 部屋には末端価格20万ドル分のヘロインがあり、車に投げ込んだ袋にそれが入っていたという。

 宮永さんは同事件に絡んだ沖縄関係者の裁判で検察側の証人として出廷した。

 当時のゲート通りやセンター通りでは主にマリフアナが出回っていたという。小さなマッチ箱分で1ドル、少し大きいと3ドル。タイや当時のビルマ、南米産などで呼び名が異なった。

 宮永さんは那覇で一緒に演奏したことのある同世代の少年が「トイレで薬物を注射したまま死んだ」と仲間から聞いた。自身の元バンドメンバーも薬物の影響で二人亡くなったという。

 「自分も一歩間違えれば手を染めていたが、友達の死がそれを止めてくれた。薬物は人間を滅ぼす。こういう世界は二度とあってはいけない」と語った。