【記憶を重ねて 沖縄戦とウクライナ侵攻】(1)

玉寄哲永さん=5月26日、那覇市

4月6日、集会で声を上げた玉寄哲永さん

玉寄哲永さん=5月26日、那覇市 4月6日、集会で声を上げた玉寄哲永さん

 病身を押して、一歩ずつ、前へ出る。集まった人たちが息をつめて見守る。視線の先に、87歳になる玉寄哲永さんの姿があった。

 4月6日、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して那覇市の県庁前で開かれた集会で、マイクを握った。10歳で戦場を逃げることを余儀なくされた沖縄戦を語り、呼びかけた。「侵攻に全国民が、全世界が一つになって反対するきっかけを大きくつくってまいりましょう」。侵攻に巻き込まれた住民に、かつての己が重なった。

◇    ◇

 両親と弟の4人で暮らしていた。1944年10月10日に那覇市を襲った10・10空襲で、父が営む仕出屋は全焼。米軍上陸で日本軍から南へ避難するよう言われた。逃げ惑う毎日が始まった。

 向かった先々で、嵐のような艦砲射撃と機銃掃射にさらされた。避難のために一緒に歩く人たちが米軍艦からの砲撃で一人、また一人と倒れていった。道に折り重なる遺体の腐臭が鼻にしみつき、離れない。

 住民を守るはずの日本軍は命をおびやかす存在になっていた。日中の攻撃を避けて徹夜で掘った壕は翌朝、兵士に銃剣を地面に突き立てて脅され、奪われた。

 食べ物がなく飢えに苦しむなか、母が頭の上半分がない日本兵の背嚢(はいのう)から、靴下に入った米を見つけた。衰弱した弟のために鍋で炊いたかゆは、軍刀を抜き放ち切りかかってきた将校に取り上げられた。軍服の上から浴衣を着て、住民を装っているように見えた。「貴様らこれ使え」。代わりに手りゅう弾を渡された。

 南を目指してたどり着いたのは、本島南端の喜屋武岬だった。岩陰に身を潜め、死体の隣に打ち寄せられた果物の皮を家族でひと口ずつかじって命をつないだ。

 今が何月何日かも分からなくなった頃、米軍が軍艦から投降を呼びかけるのが聞こえた。外に出たら攻撃されてしまうかもしれない。「子どもなら危害を加えないだろう」。枝に結んだ白旗を手に、先頭に立たされた。戦争は人を人でなくす、と言う。だが、人間の根っこがあらわになるのもまた戦争だった。捕虜収容所で、弟は3歳で亡くなった。戦後は長く平和運動に関わった。

 「また人間の地獄が始まる」。ロシアがウクライナへ侵攻を始めたとニュースで見た時、沖縄戦の光景がよみがえってきた。底冷えがした。「権力者が始めた戦争で、人が死に追いやられている。こんなことが許されていいはずがない」。強い悲しみと憤りが、込み上げてくる。

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 玉寄さんが街で声を上げた1カ月後。ウクライナを出発した5人の家族が、那覇空港に降り立った。

(社会部・棚橋咲月)

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