[沖縄の生活史~語り、聞く復帰50年]第2部▽30 語り手 門中の神人(89)(下) 聞き手 語り手のおい(62)※前編から続き

■終戦後の暮らし

 -きょうだいだけで戦後の生活はスタートするけど。

 (現在の八重瀬町)世名城で小さいおうちさーね。あの頃、世の中は平和だったと思うよ。おうちの前はカバー。テント。そこで寝ているさーね。男たちも入って来ないさあ。平和だったんだと思うよ。

 -世名城に帰って来た時、最初はテントだったの?

 前の方はよ。それで台風の時、奥にドラム缶があったので、三男はドラム缶に隠れて入っておいて自分はよ、「ねーさん、やーやくうりーしがよー(家が壊れてしまうよ)」と言っていた。それだけは覚えている。でも、生活はね。最初は配給をもらっていたけど、アフリカマイマイ分かるか。あれも食べたよ。

 -きょうだいだけで住んだ時期はどのくらいテント暮らしは?

 いっときだよ。移った時期よ。後におうちは造ったけどね。

 -きょうだい6名で生活したのはどのくらいなの?

 私が役場を辞めた時くらいまでは一緒だったはず。私が高校通っている頃は、次男(弟)なんかは一人前に働いているからね。

 -おばさんが家を出る前に、三女も結婚して家を出ている。

 いや、三女ねーさんの結婚は私が役場に就職した後だね。役場に行く時からはいなかった。

 -どんな生活をしていたの、きょうだいだけで。配給があったの?

 そうだね。配給があった。わずかだけど食料も作っていたけどね。三女ねーさんは少し落ち着いてからは幼稚園の保母していた。だから四男たちも幼稚園に行っていたさー。何年かよく分からないけど。うちなんか、あっちから糸満に学校通っていたけどね。げたさー、げた。げた通学(笑)。

 -高校は東風平原から通っていた?

 うんうん。歩いてさー。

 -あの頃は高校行くのは少なかったでしょ。

 少なかったね。もう雨降りなんか、何かー、アメリカのたくぅちぶるー(かっぱのようなもの)と言っていたかね。みんな同じような服装をしているからね。遅くなって前から誰かが行くと言って、急いで行ったから男だったりして(笑)。ほんとにげたを履いて、でも1年生だけかね。げた履いたのは。2年からはなんか、靴履いたみたいだけどね。

 -転校して編入みたいになっている。

 編入やるみたいにしてね。向こう(宮崎)では勉強らしい勉強はしてないからさー。糸満高校では1年に入って。

 楽しかったよー。みんなほとんど年上だった。同じ学年でも2歳か、3歳上。私なんか、クラスに同じ年齢の人たちは4~5名はいたかね。同じ年齢の人は。一番年下だった、私は(笑)。今、考えると、かわいがられたような気がするよ。良くしてもらった記憶がある。楽しかったよ。部活はやってないね。あの頃、野球はあったけどね。男の人たちは。部活らしい部活はあったかなー。

 -2年生くらいからは世名城から通っているの。

 そうそう。世名城にも1人は同級生がいたからね。女の人が。これたちは沖縄で戦後受けて(受験)いるわけさーね。

 -編入と言っても試験があったんでしょう。

 ない。だから、向こうから女学校にいた何か、持って来たのかなあ。それはよく覚えてない。証明書みたいなものを持って来たはずよ。だからすぐ編入されたんであって。

 弁当も持って行ったよ。台風の後は、かやぶきの提出なんかもあったよ。だから今、次男(弟)がキャベツ植えてある所に母は埋めてあったって言うからね。こっちに、かやは伸びているからさー。こっちから切って持って行ったよ。そんなこともあったけど、とにかく楽しかったね。高校は。2年の時は先生にとてもかわいがられた気がする。親がいないと思っていたのか。

■役場から洋裁店

 -これ(写真)は何歳の頃?

 1933年生まれだから20歳か。役場に入ってからね。高校卒業してから役場に4~5年くらいいるよ。これが役場にいる時の写真だけどさー(笑)。女は私一人さ。これは世名城の人じゃないか。だからこの写真が何年か分からなかったから、たぶん何かの記念誌を作った時のものだからと、これに(村史)あるだろうと調べてみた。そしたら1952年だった。一緒に宮崎疎開した三男(弟)がボリビアに行く時、私はもう役場にいたからね。卒業して間もなくしてから。

 あの当時は職員も少なかったから、女一人だからね。お客さんが来るとお茶をついだり、庶務の仕事をしていた。だから給仕もしながら、庶務の仕事をしていた。印鑑証明書とか取りに来るでしょう。それを書いたりしていた。役場は4年余り勤めて辞めた。...