慰霊の日が巡ってきた。

「平和の礎」に刻まれた名前をなでる遺族=2021年6月23日

 今年も多くの慰霊祭が、新型コロナウイルスの影響を受け、取りやめや規模縮小を余儀なくされた。

 県遺族連合会と日本遺族会は、慰霊の日に実施していた「平和祈願慰霊大行進」を3年連続で中止する。

 だが、それより何より、今年の慰霊の日は、これまでの慰霊の日とはだいぶ社会の空気が異なる。

 ウクライナ侵攻をきっかけに、戦争にまつわるさまざまなことが、次から次に日常生活に侵入するようになった。

 戦争が生々しく露出してきたのだ。

 沖縄戦を生き延びた人々は、自らの戦争体験とウクライナ市民の現状を重ね合わせる。

 米軍上陸後、5歳で村内の壕を転々とした読谷村の喜友名昇さんは、居ても立ってもいられなくなって、支援の募金活動を始めた。

 地下鉄の駅や建物の地下をシェルターとして避難生活を送るウクライナ住民。

 喜友名さんは言う。「シェルターは沖縄戦で言えば壕なんだ。形は違っても苦しみは全く一緒だ」

 共通するのは、戦争の残忍性と非人間性。民間人が犠牲になるという特徴である。

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 八重山平和祈念館は10日から6月企画展を始めた。「戦争を『自分事』として考える~時を越えて、国を越えて~」というタイトルが、問題意識の広がりと切迫感を感じさせる。

 どのようにすれば戦争を「自分事」として考えることができるのか。

 戦争を知らない戦後生まれが県人口の9割近くを占めるだけに、この問いかけは切実だ。

 「平和の礎」に刻まれた24万人余りの戦没者の名前を一人ずつ読み上げる初めての試みも、12日から始まった。

 名前はその人が生きてきた証しである。

 自分はここで死ぬかもしれない。そう思って木の幹に名前を刻んだり、戦死した学友の名前を彫るなどの事例もあったという。

 「平和の礎」の原点はここにある、と建設に携わった石原昌家沖国大名誉教授は指摘する。

 死に場所が特定できず、遺骨すら戻ってこない多くの戦没者の遺族にとって、刻銘板に刻まれた名前は特別な意味を持つ。

 何人もの名前を読み上げる行為を通して、その人自身の沖縄戦認識も変化する。

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 私たちはいま、過去・現在・未来にまたがる三つの戦争に直面している。

 77年前の沖縄戦と、現在進行中のウクライナ侵攻と、米中対立を背景にした台湾有事という名の未来の戦争の三つである。

 このような事態はこれまでなかった。現在を「戦前」と呼ぶ人もいる。

 人は「平和」という抽象的な言葉よりも「安全」という言葉に敏感だ。

 「まことに『安全の脅威』ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない」と著名な精神医学者の中井久夫さんは指摘する(「戦争と平和 ある観察」)。

 ロシアもそうだった。「安全の脅威」を前面に押し立てて戦争準備を始め、侵攻を開始したのである。

 南西諸島の軍事要塞(ようさい)化や軍事費の増大、敵基地攻撃能力の保有などが、矢継ぎ早に打ち出されているのも「安全の脅威」を根拠にしている。

 空気によって流され、気が付いたら後戻りのできない地点にいた、というのが一番怖い。

 戦争が引き起こされるときは、言論が統制され、戦争を正当化するプロパガンダが繰り返されることが多い。

 二度と同じ過ちを繰り返してはならない。

 緊張をつくり出すのではなく、緊張を緩和する取り組みが必要だ。

(写図説明)「平和の礎」に刻まれた名前をなでる遺族=2021年6月23日