【記憶を重ねて 沖縄戦とウクライナ侵攻】 花城清裕さん(84)上間幸仁さん(88)

戦争孤児として生きてきて「もう誰にもこんな思いはしてほしくない」と話す花城清裕さん=19日、那覇市

「親がいればなあ。死ぬまで思い続けると思う」と話す上間幸仁さん=8日、那覇市

戦争孤児として生きてきて「もう誰にもこんな思いはしてほしくない」と話す花城清裕さん=19日、那覇市 「親がいればなあ。死ぬまで思い続けると思う」と話す上間幸仁さん=8日、那覇市

 花城清裕さん(84)=那覇市=は首里第一国民学校の1年生だった1944年8月、家族5人を首里に残して1人疎開船に乗った。沖縄戦に巻き込まれた家族は、全員が亡くなった。

 戦後は、親戚の家を転々として養育された。小学校にはほとんど行けず、畑仕事に汗を流す日々。運動会でにぎり飯や天ぷらを囲む家族を横目に、一人で井戸水を飲んだ。「痩せっぽちで、服装もよれよれ。周りがうらやましかった」

 同級生が中学、高校に通っている時は軍作業に出向いた。16歳ごろから定時制の夜間学校に通い「両親がいる家庭の子には絶対に負けない」と猛勉強。刑務官の試験に合格した。ただ、就職後も「親がいないあいつは泥棒して刑務所に入っている」と言いふらされ、同級生に避けられた。

 その後は警察官として、復帰を求めるデモや平和運動の交通整理に携わった。「本当はこちら側ではなく、反戦、平和を願って一緒に参加したい思いがあった」

 警察官として精いっぱい定年まで働いた人生を誇りに思う。でも心の中でずっと思っていることがある。「両親が生きていたら大学まで行って教員になりたかったな」

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 名護市の屋我地で沖縄戦を経験した上間幸仁さん(88)=那覇市=は旧満州(現中国東北部)で父親を、その後に迎えた継父と母を沖縄戦で亡くした。当時3カ月だった妹も、腕の中で息絶えた。

 「とにかく悔しいんですよ。何でこうなってしまったのかってね」。3年生の後半までしか小学校へ十分に通えなかったことが、ずっと心に引っかかっている。

 戦後は屋我地の親戚に育てられ、牛やヤギを飼ったり、馬車引きをしたりして働いた。一人、畑で草刈りしていると、悔しさと寂しさで涙がいっぱいになった。「何で親は死んだのか。生きておればこんなことにならなかった」。泣き尽くし、また草刈りして、家へ帰った。

 「親戚は私を学校に行かせる予定はなかったんでしょう。ただ働きさせようと思ったんでしょうね」。学校に行きたいと言えなかった。「言える立場じゃないでしょ。他人の子だのに。ここに置いてやってるという気持ちでしょ」

 成人後、近くの中学校を訪ね「卒業証書が欲しい」と校長に頼み込んだ。証書を手に建築大工や土木管理技士、小型船舶操縦士など免許や資格を幾つも取り、必死で働いた。

 人生の先生は辞書。幼い頃は勉強が得意だっただけに、学べなかった悔しさをずっと胸に抱えてきた。

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 「ウクライナでも、自分のような孤児が生まれているのだろうか」と心を痛める花城さん。「みんな親を空気と水みたいに当たり前に思っているが、失うつらさは体験した人にしか分からない。もう誰にもこんな思いはしてほしくない」

 上間さんも同じ気持ちだ。「親がいればなあ。死ぬまでそれを思い続けると思う」

(社会部・當銘悠)