[沖縄の生活史~語り、聞く復帰50年]第2部(36) 語り手 母・渡邉敬子さん(67)(下) 聞き手 渡邉隆さん(37)※前編から続き

 -(高校を卒業後に東京へ向かう)船は那覇港から?

 那覇港から。那覇の泊港から出たんじゃないかな。みんな長いテープを投げてくれて。テープを握りながら、うちの母親がずーっと私ばかりを見てて(笑)。

 それでね、音楽が流れるの。

 ♪ほーたーるのーひーかーり♪

 その風景が忘れられないというか…。久しぶりに思い出した。

 -そうなんだ。美智子おばさんたちも来たの?

 ううん。美智子(妹)たちは来なくて、たぶん七美(妹)は来てたんじゃないかな。七美はまだ、幼稚園くらいだった。

 -初めて聞く話ばかりだよ。しかし船とはねえ。

■テープ握り別れ

 結構大きい船だったよ。車も乗れるくらいの。だからテープを投げるのにデッキまで高すぎるの。よくこの高さまで投げてくれたなあと思うくらい。

 うちの父親がバーって投げて。もちろん海に落ちてるテープもあるんだけど。キャッチして。おじいとかおばあとかが握っているテープをこうやって。そういうのがあったね。

 -それは何年の時だっけ?

 昭和49年だったんじゃないかな。西暦でいうと1974年。

 -ということは、沖縄復帰の翌々年か。

 そっか、本土復帰の翌々年だね。72年だったんだね、本土復帰。本土復帰と同じくらいだねえ。ほぼ一緒だね。東京の生活が。

 -(夫)じゃあ、もうほとんどこっちの人だよね。

 だから、うちの妹たちも、私の存在を本当に感じてくれているのか心配。妹が働いている病院はお年寄りの方が多く、レントゲン(エックス線)を撮ると、体の中に爆弾の破片が入ったままの患者さんが何人かいたらしくって。その時はおじいさんだけど、戦争の時はまだ若者だったわけでしょ。まだ子どもか10代くらいの年齢の時に、沖縄戦でその破片を浴びたんだなって。

 -おばさんは最初から看護師さんだったの?

 神奈川県の産婦人科医院で見習いをしながら看護学校に通って、正看になって。そこでね、見習いというのかな、医院で世話になりながら看護学校に通って、どのくらい、5年くらいいたかね。

■叫ぶおじいさん

 -それで、その病院でずっと働いていたの?

 ううん、資格を取ったら沖縄に帰って、沖縄の病院で働いてた。今も働いてる。病院は変わったけど、今も働いてるよ。で、妹はよく夜勤とかで、夜仕事をすることが多いんだけど、夜中に、ものすごく叫ぶおじいさんがいたんだって。戦争の頃の記憶がよみがえるのかな。「みんな早く隠れて」とか、「早く逃げて」って。叫んでたって。

 -そのおじいさんが夢を見ながら寝言を言っていたということ?

 夢ではなく…。自分の家族や子どもが襲われたことがあるのか分からないけど、おばさんたちのような若い看護婦さんたちを見ると、早く隠れなさい、早く逃げなさいってね。寝ながらじゃなく、起きて叫びながら言っている。戦争の記憶というかね。

 だから妹は、患者さんを通じて、戦争というものがどんなに恐ろしいものか、というのを一番強く感じているんじゃないかなと思う。お年寄りの患者が多いから。みんな戦争を体験している人ばっかりじゃない。

■基地の中で祭り

 嘉手納基地の中で働いている人とか、その周辺に住んでいる人たちが楽しむお祭りみたいなものがあったの。嘉手納基地の中でやっているカーニバルだったと思う。お母さんもあまりよく覚えていないけど。花火が上がったり。そういうのがあったのよ。父がそのカーニバルに行って、ドーナツを買ってきてくれたの。小学校の低学年だから、1年生、7歳くらいの時かな。それでカーニバルに行って、ドーナツを買って、車の中で食べたという記憶があって。...