1853年5月、米海軍提督ペリーの艦隊が琉球国にやって来た。米捕鯨船の停泊地と燃料確保が目的だ。首里王府は、ペリーの首里城への強制入城など数々の要求に振り回された。一方、探検隊の行く先では、人々は恐れと好奇心をもってウランダー(外国人)を見詰めた。しまくとぅばを手掛かりに足跡を訪ねた。(編集委員・謝花直美)

ウランダムイ跡に立つ(左から)金武町教委の安座間充さん、町議会の嘉数義光議長、同教委の玉元孝治さん=町並里

沖合いに浮かぶエーグ岩=金武町並里

ウランダムイ跡に立つ(左から)金武町教委の安座間充さん、町議会の嘉数義光議長、同教委の玉元孝治さん=町並里 沖合いに浮かぶエーグ岩=金武町並里

 探検隊は53年5月30日那覇を出発。東海岸を北上し、金武、恩納、読谷山へと巡り6日後に那覇に戻った。3日目に宿泊したのが、金武町役場にあった金武番所(役所)だ。

物語紡ぐしまくとぅば
ウランダー(外国人)▶ウランダムイ

 一行が星の観察をして星座図も残る町並里区。木々が茂る丘は「ウランダムイ」と呼ばれ、今は公園になっている。同地出身の嘉数義光金武町議会議長の幼少時、一帯は木々がうっそうと生い茂る林。「小字はグヤバル。番所のすぐ近く。元の名前はあったはずだが、記録にもない」と笑う。元の名前が消えるほど、探検隊の衝撃は大きかったのか。

エッグ(卵)▶エーグ岩

 浜から沖合1キロには「エーグ岩」がある。船員が海鳥の卵(エッグ)があると集落民に教えたことが由来とされる。この岩も本来の名は伝わっていない。金武町教育委員会の町史編さん担当、玉元孝治さんは「教えた相手が、村民と岩にいた漁民の2種の言い伝えがある」と話す。

 人々が探検隊の水ポンプや時計に驚いた話も伝わる。口伝は戦後、文字記録となることで伝わった。1901年に金武間切長を務めた池原金次郎さんを祖父にもつ元校長・池原弘さんが80年代に『金武町史』などに記述した。金次郎さんの生きた時代は、ペリー来琉から数十年後。人々の驚きと好奇心を生き生きと伝えていた。

 艦隊側の記録、『沖縄訪問記』(外間政章訳)には口伝で伝わる話は記録がない。ただ、百の目が垣根や藪(やぶ)から探検隊を見詰めている-など、好奇心いっぱいの姿を記録する。

 艦隊は、日米和親条約の締結をはさみ6度来琉した。同社会教育課の安座間充係長は「金武には1泊2日で、4回宿泊した」と説明。「度々来たのは、金武というところが環境が良かったからだ」と推測する。

 メモ ペリー艦隊 日本開国交渉、難破船員保護、燃料と必需品補給のため遠征した。1853年5月26日、那覇に来琉、以降5度寄港した。54年3月日米和親条約、7月琉米修好条約を締結。53年水兵が恩納間切で通行人に発砲、54年那覇では女性暴行事件を起こした。