[沖縄の生活史~語り、聞く復帰50年]第2部(41) 語り手 母(74)(上) 聞き手 山田哲也さん(48)

■長崎から沖縄移住

 (文中の固有名詞の一部は仮名です)

 生まれたのは長崎さ。軍の人たちの、沖縄のよ、下宿みたいな感じでやってたみたい。お母ちゃんは、長崎に嫁に行ったんじゃない? それで長崎でみんな子どもたちを産んだわけよ。沖縄に来たのが小学校1年生ぐらいかな。その時はもうアメリカ統治下さ。長崎で生まれて、沖縄に家族みんな引き揚げてきた。あっちで暮らしてたけど、おうちを造ったから沖縄に帰っておいでってことで、うちのおっきいばあちゃん、うちの父のお母さんのお兄さんが繁多川におうち造ったからってことで引き揚げてきた。10人家族みんな。

■我那覇から平田に

 -でも、お母さんのお父さんも沖縄出身だよね。

 そうそう、沖縄。もともとは我那覇って。それを平田に改名して。内地で読みにくいからじゃない? 我那覇から変わったって言ったよ。お母さんの親戚の名前、誰かの名前を取ったんじゃない? 平田という名前を取ろうってことで、親戚一同みんな平田にしたんでしょうね。で、小学校1年生ぐらいに家族みんなで引き揚げてきて。

 その時はもうヒロキ兄ちゃんなんかはみんな高校生さ。トミコお姉ちゃん。こっちで受験して高校入って。私なんかはまだ小さかったからね。ただ、夜ね、飛行機が訓練だはずね、飛んでるのをなんとなく覚えてる。おうち、みんな暗くして電気を。たぶん訓練じゃない? アメリカの飛行機の。あんまり定かではないけど、米軍機がよ、飛んでるような記憶が残ってる。

 もう自然に何も感じず溶け込んでるね、那覇に住んでる人は話聞くと、私も。別に米軍見るわけでもなし。那覇市にいる人はよ。たまに、2世って言うの、そういう人からお菓子をもらったような気がする。チョコレートとか。見た感じはアメリカではないけど、なんか2世みたいな感じの人から何かお菓子をもらったような気がする。2世って、ほら、何て言うの、アメリカ国籍の人さ、あの人たちは。たまに親戚かなんか知らんけど、ある特定のおうちによく来よったのよ。私なんかはお菓子をもらったりしたような。だから、アメリカのチョコレートがもう潜在意識に入り込んで、すごいおいしかったっていうのは覚えてる。なんかお菓子だね、一番記憶に残ってるのは。

 -戻って来てからは、お父さんはどんなことをしてた?

 なんか農薬の関係の仕事してたよ。父ちゃんはサンスイという農薬会社で働いて、自分で独立して農薬会社をやったわけよ。平田商店って、農薬会社の、配達。で、亡くなったから(長男で、語り手の兄の)ヒロキおじさんが後継ぎに。そこで(姉の)トミコおばちゃんは事務してたはず。あの頃はみんな農薬さね。ひよこも扱ってたよ。なんか温める電球もあったような気がするけど。卵からかえしたんかね、おうちで。

■夜中にひよこ配る

 -ひよこをどうするの?

 夜中、配って歩きよったよ。車に乗って。昼間は学校だから、夜、車に乗ってからに配達に行きよった。私なんかは車で後ろに寝ながら、よく行きよったけど。家族と2人。シゲオ兄さんもいたかな。これが楽しみだったね。夜中だよ。

 -ひよこは生きてるんだよね。

 うん。箱に入ってなんかピヨピヨピヨしてたけど。(妹の)キョウコも一緒に行きよったから。翌日学校なのに車に乗ってからに。楽しくて。遅かったよ。何で夜、配達したのかね。でかい車だったよ。トラックみたいな。屋根付きで。楽しかった。なんか、あやふやだね。

 -もうなんか昔のことだから忘れるね。

 忘れる。誰かいればね、こんなだったねーって確認できるけど。キョウコおばちゃんもいないから。聞きようがない。1人。

 -もう1人か。

 うん。7人きょうだいもね、こんな早くみんな亡くなって。大変だよ。

 小学校は小波小学校。小波小学校から志真中に行って。その時も、そんなアメリカ人っていないの、あちらには。ただ、内地行く時は予防注射、種痘か、あれを打って、パスポート持って行った。内地行ったのが高校卒業だから19歳ぐらい。で、ドルが円になったのは覚えてて。円を使うさ、東京はね。給料とかそういうのはもう円さ。復帰運動なんかやってるさ。そういうのを見ても、あんまり感じなかったね。まあ、第三者的な目で見てたというのかな。ただ、安里の十字路辺りで復帰運動のデモはよく見よった。私が三上(病院)で働いてる頃だから、22~23(歳)かね。内地で4年間。看護学校出て、帰って来て、精神科の、いまの光が丘病院、あっちで働いて、それからお父さんと結婚して大阪行ったわけ。...