1944年6月、米軍が上陸し住民を巻き込む激しい地上戦があったサイパン島。日本軍の組織的戦闘が終結して7日で78年となる。当時6歳だった長山和子さん(84)=沖縄市=は妹2人と親族7人を失った。つらい記憶に胸を痛め、戦後長い間、固く口を閉ざしてきた。慰霊祭への参加をきっかけに少しずつ体験を語るようになった。当時を思い返し、「二度と戦争がないように」と思いを強くしている。

 和子さんは三女として大阪府で生まれた。2歳の時に一家は開拓移民としてサイパンに渡り、豆腐屋や養豚を営み、穏やかな暮らしを送っていた。そのうち、多くの日本兵が島に入ってきた。入学したばかりの国民学校は兵隊が使い、ほとんど行けなかった。

■「ドーン」入れなかった壕で爆音

「あんな戦争をもう誰にも経験してほしくない」と語る長山和子さん=4日、沖縄市

 戦火が激しくなると、看護師として野戦病院に駆り出された一番上の姉を除く両親と姉1人、妹3人の計7人で山を逃げ惑った。

 途中で壕に避難している叔父の家族に遭遇した。「子どもたちだけでも壕に入れてもらえないか」。両親が交渉したが壕はいっぱい。叔母は炊きたてのおにぎりを「せめてこれだけでも。後で食べてね」と内緒で渡してくれた。着ていたワンピースの裾にくるんで、大切に食べた。

 「ドーン」。近くで、ものすごい音がした。米を炊く煙があだになってしまったのか-。叔父家族がいた壕が攻撃された。父は、壕に走って戻ろうとする母の髪を引っ張って止めた。
 「あの時、壕に入っていたら、自分たちも命を落としていたかもしれない」

■穴の中にたくさんの遺体

 1944年6月ごろ、サイパン島の山中を逃げ惑っていた当時6歳の長山和子さん(84)はいつの間にか、両親と離れ離れになった。偶然に知り合いのおばさんに会い、手を引かれながら北へ北へと逃げた。夜には、一面を真昼のように照らす照明弾が打ち上がる。伏せたときに頭と足を負傷し、傷口にはうじ虫が湧いた。

 逃げる途中、ずっと手を引いてくれていたおばさんが、弾に当たり倒れた。「しがみついていたけど、米兵に引き離され、捕虜になった」

 連れて行かれたのは、山中で避難民が集められている場所。少し先にはブルドーザーで掘った穴があり、トラックに積まれたたくさんの遺体が放り込まれた。その光景に大きな衝撃を受けたのを覚えている。

 しばらくして収容所で家族と再会。だが、戦争のショックで、和子さんはしばらく言葉を発することができなくなった。テント小屋で妹2人は栄養失調で犠牲に。終戦から数年後、家族で沖縄に引き揚げた。

■「幸せが一瞬で奪われる」

 戦から40年余りが過ぎ、子育てが一段落した50歳くらいの頃、慰霊祭への参加を決めてサイパンに渡った。飛行機から見た島の光景に胸が詰まり、涙があふれた。「やっと来ましたよ」。慰霊祭で手を合わせ、他の遺族と話す中で、自分と同じように苦しんでいる人がいることを知った。以来、これまでふたをしてきた体験を子どもたちにも伝えるようになった。

平和の礎に刻まれた家族や親族の名前を見て、「会いに来ましたよ」と声をかける長山和子さん(左)と夫の松雄さん(右)ら=6月23日、糸満市摩文仁

 今年の慰霊の日は、妹たちや遺骨も見つかっていない親戚たちの名前が刻まれた平和の礎に出向いた。「おばさんはあの壕で、おにぎりを渡してくれた」。当時を思いながら、おにぎりや水を供えた。

 9歳でサイパンでの戦争を経験した夫の松雄さん(87)も弟を栄養失調で亡くし、「二度と戦争はしてはいけない」と訴える。両親と共に島の慰霊祭に参加した長女の比嘉良美さん(62)は「初めて聞いた時は、両親はこんな体験をしていたんだと驚いた。子や孫に伝えていかないといけない」と誓った。

 和子さんは「本当は戦争のことは思い出したくない」と声を詰まらせる。「戦争は人間の幸せが一瞬で奪われる。もう誰にもこんな思いはしてほしくない」 

(社会部・當銘悠)