那覇-糸満の約9キロを走った「軌道馬車」。レールは那覇から見て左側に敷かれていたことから、この馬車は那覇に向かっている。右奥には記者が取材に使ったフォード車が写っており、糸満に向かう道中で馬車とすれ違った際、撮影したとみられる(写真:朝日新聞社)
那覇-糸満の約9キロを走った「軌道馬車」。レールは那覇から見て左側に敷かれていたことから、この馬車は那覇に向かっている。右奥には記者が取材に使ったフォード車が写っており、糸満に向かう道中で馬車とすれ違った際、撮影したとみられる(写真:朝日新聞社)
那覇-糸満の約9キロを走った「軌道馬車」。レールは那覇から見て左側に敷かれていたことから、この馬車は那覇に向かっている。右奥には記者が取材に使ったフォード車が写っており、糸満に向かう道中で馬車とすれ違った際、撮影したとみられる(写真:朝日新聞社) 糸満中心部、山巓毛(さんてぃんもう)から北西の眺望。赤瓦の家並から、町の発展ぶりが伝わる。豊かさの源は漁業による収入だった。写真奥、左側の濃い島影は糸満で「アナギ」と呼ぶ島だが、1960年代の埋め立てで陸続きになった。アナギの一部だった岩は今も残り、拝所になっている(写真:朝日新聞社) 海に素潜りで入り、地元でウーギンと呼ぶ、先端にかえしのない銛(もり)で仕留めた魚をサバニに上げる漁師たち。魚は鋭い口先を持つダツ。光に反応して突進する性質がある。今も漁船に乗る玉城亀助さん(85)ら複数の人によると、「豊漁とともに、ダツよけをお願いする祭祀(さいし)、ヒーダチの御願があった」と話す。糸満市史によると旧暦4月10日以前の吉日を選んで執り行われた。(写真:朝日新聞社) 久高島で12年に1度行われる祭事「イザイホー」の場、久高殿の「神アシャギ」。今も同じ場所にある。島に詳しい赤嶺政信・琉球大学教授は「祭事の前には神アシャギ周りの草を刈るため、写真ほど伸びることはない」と語る。朝日新聞「海洋ニッポン」連載よりも前で、祭事の間が空いて草が茂る時期であることから、「35年5月ごろの取材だったのでは」とみている(写真:朝日新聞社) 久高島では西海岸の崖の陰で、遺体を納めた木棺を置き、12年に1度、とら年の旧暦10月20日に一斉に棺(ひつぎ)を開け、遺族が洗骨した。棺の上のわらじや杖は、死者が無事に彼岸にたどり着けるようにという意味がある。骨は、写真中央に見える陶器や石でできた家型の「厨子甕(ずしがめ)」などに納め、正式な墓所に葬った(写真:朝日新聞社) 戦前に現在の那覇市東町にあった「那覇ウフマチ(大市)」と呼ばれた市場の様子。路上で商品を並べて露店販売をする人々もおり、にぎわった。背後の建物には「大迫商店」の店名が確認できる。当時の地図と照合すると、野菜や雑貨を販売していた通り沿いの、海産物などを販売する「大迫海産」の店先と思われる。(写真:朝日新聞社) 那覇市内にあった雑貨店の様子。庶民が日常的に生活物資を買い求めていた市場とは雰囲気が異なる。市内にいくつかあった百貨店内だろうか。店内にはキューピー人形がディスプレーされているほか、ボンタンアメの広告が確認できるなど、店の品ぞろえの豊富さが分かる。1935年当時から、沖縄にも商品経済の波が訪れていたことが見て取れる(写真:朝日新聞社) 圧搾機を使い、黒糖の原料となるサトウキビの汁を搾り出す美里村古謝の農民たち。古謝は1933年、沖縄県から「糖業経営改善指導部落」と指定を受け、サトウキビの品質向上や収穫量増加を目指した。圧搾機は村の農家で構成する「共同製糖組合」が30年代に購入。利用は1日1世帯に限られており、予約表に基づいて農民たちはサトウキビの収穫日程を調整していたという(写真:朝日新聞社) 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 写真:朝日新聞社 大阪朝日新聞連載「海洋ニッポン」
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